第4章 真鍋島の信仰

          第1章 真鍋島の概要        第2章 真鍋島の歴史         第3章 真鍋氏の真実        第5章 真鍋島の習俗

 
第 1 節 神々への信仰と年中行事
 
1. 島民生活と密接な神々への信仰
 古来より、島故に厳しい環境の中で、農業や漁業など島民生活と密接な関わりをもって、自然の恵みへの感謝と安全への祈願から、多くの神々が祀(まつ)られてきたのであろう。
 その主なものとして、八幡宮、天神宮、荒神宮、恵比寿宮、金刀比羅宮、稲荷宮などが島民の信仰を集めている。
 特に『八幡宮』は、島の東、岩坪集落側の宮の端(はな)上部にあり、『小田郡誌』には「祭神は応神天皇、神功皇后ほか三女神」と記されており、元禄九年(1696)現地に新築してより島民全体の氏神としてその信仰を集め、安政五年(1858)昭和二年(1947)改修したといわれ、その後も昭和四七年、平成初期にも改修を行い、現在に至っている。 
 『備中眞鍋島の史料』の「嶋數村堺萬覺書帳(しまかずむらさかいよろずおぼえがきちょう)」には、「延寶八(1680)年、真鍋嶋東山ニ八幡宮御座候、西山ニ天神宮御座候、荒神宮弐ヶ所、須濱神社御座候、めうけん御座候、ゑびす四社御座候、ほこ崎大明神御座候」とあり、多くの神々が古くから存在していたことが窺(うかが)える。
 この他、岩坪集落にある小社として、『男門姥(おとぐい)神社』は、岩坪集落の中腹、庵家の上方にあり、八幡宮の奥の院であるといわれ、八幡宮の祭礼時には、世話役始め関係者は、先ずは、この社にお詣りしている。
 『若宮神社』は、岩坪集落の西側にあり、松の巨木を守るように神社が祀られており、いつも手が加えられ、その美しい姿には目を見張るものがある。一般的に、「若宮八幡宮」は八幡神である応神天皇の御子仁徳天皇(大鷦鷯尊)が祀られているが、単に「若宮」は「八幡宮本宮から迎えた新宮」という意味で、この場合は応神天皇が祀られているという。この社の名は「若宮神社」となっており、おそらく後者であろう。また、この地域の字名が「若宮」となっていることから、神社名が字名になったのであれば、古くから存在していたものと思われる。
 『木野山神社』は、八幡宮の本浦側階段の上方にあり、本山は高梁市津川町で、流行病に霊験あらたかといわれ、おそらく真鍋島でも江戸期から明治期に、コレラなどの疫病から免れんがために分祀したものであろう。
 集落の人々から親しみを込めて「藤原さん」と称される『藤原神社』は、八幡宮の岩坪側階段上部の東側横にあり、藤原氏来島の謂われと関わりがあるものか。この藤原神社の横には、稲荷宮社が昭和30年代に祀られているが、この稲荷宮が参拝者からは、藤原神社の新宮との誤解を受けているようである。
 八幡宮の岩坪階段下部の西側には、真鍋島で最古といわれる『賽(さい)の神』が祀られ、「才の神」「幸の神」「妻の神」「歳の神」「鞘の神」「塞の神」などの字が宛てられるという。
 この神は、道を遮り悪霊の侵入を防ぐ「道切り」の神として、道行く人を災難から守る神として古くから人々の信仰を集めているという。一般的には注連縄(しめなわ)を祀るが、この神の謂われからか、藁草履
(わらぞうりがいつもお供えされている。  
 
   
                       八 幡 宮                                  稲荷宮
 
       
                  男門姥(おとぐい)神社
 
             
                                                      若 宮 神 社                                     藤原神社
 
                   
              木野山神社              賽(さい)の神          八幡宮境内にある天神宮
 
 

2. 海 に 纏 わ る 神 々
 海に纏(まつ)わる神々として、『恵比須(えびす)宮』や『金比羅(こんぴら)宮』の外に、船には『船玉(ふなだま)様』をお祀(まつ)りし、正月の「乗り初(ぞ)め」に始まり、旧暦一月一〇日の恵比須様の日には「大霊(おおだま)起こし」が行われる。
 大霊起こしは、網や樽(たる)を床の間の前に置き、樽の上に切り餅を重ねて飾り、尾頭付きの魚をお供えし、ロウソクを灯して、親類縁者を招き宴(うたげ)が催されていた。
 また、不漁が続く時など「まんなおし」をするといって八幡宮で籤(くじ)を引く。これは各家によって、あるいはその時々によって方法が違うが、神々への参拝と親類縁者を集めて振る舞うことで幸運を運ぶ転機としようとするのである。
 その他、島外ではあるが鞆の浦の『祇園(ぎおん)社(沼名神社)』参り、琴平の『金比羅宮』参り、宮島(讃岐広島)『厳島(いつくしま)神社』参りが、それぞれの社の祭に合わせて行われてきた。漁船に親戚一統が相乗りで、島じゅうの船が向かうのである。街(まち)へ出ることが少なかった子供達の楽しみの一つでもあった。
 
                     
                 恵比須(えびす)宮                                                       金比羅(こんぴら)宮
 
 

3. 神々への信仰による年中行事
 神々への信仰による年中行事については、以下のとおりであるが、昭和40年代初頭までは全て旧暦で行われてきたが、現在はほとんどが新暦に変わってきており、八幡宮祭のように日程まで変更されたものもある。
 
 ①正月  元日  元  旦
                                     ・ 若水 
                                     ・ 八幡宮への初詣
      二日  乗り初め
                                     ・ 船霊様に参拝し、お供え
    
一〇日  恵比須の日  
                                     ・大霊起こし
                                     ・ 切り餅を重ねて飾り、尾頭付きの魚をお供え
     一五日  小正月
                                     ・ 白餅(米の粉の団子)を作って神棚にお供え
 ②二月  三日        節  分
                                     ・ 豆まき、神々への参拝
 ③三月  三日  桃の節句(雛祭り)
                                     ・ 女子のある家は、雛飾りと白酒で祝う
                                     ・ 「山すべり」と称して、城山などで山遊び
 ④五月  五日  菖蒲の節句(端午の節句)
                                     ・ 男子のある家は鯉のぼり、弓矢飾りと赤飯で祝う
                                     ・ ちまきを作って神棚にお供え         
 ⑤五月 二五日  天神宮祭 
                                     ・走り御輿一体
                                     ・ 中学三年生の中から輿守を選出
 ⑥六月 二三日  荒神宮祭
                                     ・ 荒神宮と公民館で備中神楽の奉納
 ⑦七月  七日  七  夕
          ・ 若竹に短冊を吊し、夏野菜とそうめんをお供え
 ⑧八月 一五日  八幡宮祭 (一四日が宵宮、一五日が御神事、一六日お帰り)
                                     ・ 三体の走り御輿、ゆやな、太鼓打ちで島じゅう賑わう
 ⑨九月  九日  菊の節句
                                     ・ 米の粉の団子を作って神棚にお供え
 ⑩一二月一三日  この日から各家では大掃除、神棚のお清め
 ⑪一二月二五日  この日から各家は餅をつき、神々にお供え
 ⑫一二月三一日  大晦
          ・豆まき、神々への参拝
   

4. 若水(わかみず)

 元旦の暗いうちに、各家の家長により、しめ縄で飾ったつるべを持ち、集落の中腹にある本泉(ホンズミ)と呼ばれる共同井戸へ水汲みに行き、この汲んできた水のことを「若水(わかみず)」という。この若水を家に祀っている神々にお供えし、これとともに餅を薄く切り、これを瓦で焼いてお供えすることが、昭和40年代の頃まで行われていた。
 若水は邪気を除くと信じられ、神棚に供えた後、その水で食事を作ったり、口を漱いだり、茶を立てたりしたという。
 
 
 
 
5. 真 鍋 島 の 祭
 真鍋島では、多くの神々の祭が伝えられてきている。その主なものに『八幡宮祭』、『天神宮祭』、『荒神宮祭』がある。
 『天神宮祭』は、旧暦の五月二五日に行われ、御輿は一体のみであるが、「走り御輿」で、中学三年生の中から輿守が選出される。学生達は身近な仲間の雄姿を、そして親族はその成長を改めて見るのか、力の入る一瞬でもあり、島じゅう賑わいでいた。
 また、『荒神宮祭』は、旧歴六月二三、二四日で他所(よそ)から「備中神楽(岡山県芸能文化財)」を招き、荒神宮での奉納は夕方から深夜に及び篝火の中で、幻想的な舞が演じられ、翌日の昼間には公民館で、島じゅうの人びとが集まる中、勇壮な剣舞が演じられる。
 そして、我が真鍋島最大の祭が、『八幡宮祭』である。この祭は、八幡神社の新築記念として元禄九年(一六九六)に始められたと伝えられており、平成の初頭頃までは、旧暦の八月一四、一五、一六日に行われ、「走り御輿」、「ゆやな(棒術)」、「太鼓打ち(獅子舞)」などの演物(だしもの)があり、多くの人々が帰省し、島民の全てが集まり、観光客まで交えて賑わいでいた。
 祭の最大の見せ場は、集落間対抗の「走り御輿」である。三体の御輿が全速力で走り、集落の誇りを賭けて競うのである。このため、観客の興奮は絶頂を極め、大喧嘩に発展してしまう時も多々あった。
 祭の夜は、「芝居」の一座を関西や九州地方から招き、公民館を舞台に、前浜に茣蓙や蓆を敷いて観客席にし、夜遅くまで各種演目が披露され、時には他所から、「たこ焼き」や「綿飴」などの出店まで来て賑わいでいた。現在では、住人も帰省客も少なくなったことから、五月の連休に実施することとなっている。
      
                                    
ゆやな(棒術)                                          御 輿 (みこし)
 
 
                                      
                                                                                                                走り御輿
 
 
       
                                                  祭 の 観 衆 (走り御輿を待つ人々)
 
 
  
                          輿船(御輿を載せる船)
 

6. 七  夕
 七夕(しちせき、たなばた)は、五節句の一つにも数えられ、旧暦の七月七日のことである。
 古くは、「たなばた」を「棚機」とも表記し
、現在は一般的に「七夕」を「たなばた」と発音するのは、その名残であり、日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(現在のお盆)に中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)などが習合したものといわれている。
 真鍋島の七夕は、葉竹に子供たちが願い事を記した短冊を吊し、スイカ、キュウリ、ナスなどの夏野菜とそうめんをお供えする。
 そして、中国からの伝来したという乞巧奠が、そのまま残り、この日、女子は裁縫をすることで上達するといわれ、正(まさ)しく天空の「織姫」の名にあやかるかのように、七夕飾りのもとで、正座して糸通しや裁縫をする姿が見られた。
 また、「織女、牽牛伝説」と相俟って夏の夜の物悲しさを煽(あお)るかのようにあちこちの家では、子供たちによって、線香花火が灯されていた。
 翌日は、この七夕飾りを海に流すが、大量の七夕飾りが港内一杯になって船の出入りに支障ともなっていたようである。
 
 

7. 亥  の  子(いのこ)
 亥の子とは、10月の初めの亥の日の行事であり、本来の目的は、農作物の豊作と各家の繁盛を祈ることであったといわれる。この日、各家ではさつま芋で亥の子餅という団子を作り、子供達は、亥の子歌を歌いながら石を藁縄(わらなわ)で結び、石を中心にして縄を四方八方へ渡して、これを多くの子供達が引っ張って穀物をつくような真似事をしながら家々を回るのである。当初は子供達には、各家から亥の子餅などが振る舞われていたが、後年には菓子や現金に変わってきたという。
 この亥の子歌は、地域によって異なるが、本来は同じであったものが、時代とともに地域性を反映して変化して来たのかも知れない。この年中行事は、芋掘りが終わった後の初冬の風物詩でもあったが、昭和30年代前半頃を境に消えていったといわれる。            
 

『岩坪集落の亥子唄』
亥の子、亥の子、亥の子のよ-さ(夜)餅つかん奴は  
鬼産め、蛇産め角の生えた子産め  
ヤッサイドー、ヤッサイドー、ヤッサイドーのもとで、ツイテモオエズ  
ハタイテモオエズ、ヘエダンゴ、クソダンゴ
隣のエー助さんに、藁一把かりて             
ニわで戻そう     ワシャー庭掃かん、寺のナンダラこそ庭掃くものよ  
三わで戻そう  ワシャ桟(さん)打たん、大工ナンダラこそ桟打つものよ  
四わで戻そう  ワシャしわよらん、年寄りナンダラこそしわよるものよ  
五わで戻そう  ワシャ碁はうたん、碁打ちナンダラこそ碁を打つものよ  
六わで戻そう  ワシャ櫓は押さん、漁師ナンタラこそ櫓を押すものよ  
七わで戻そう  ワシャ質おかん、ビンボウナンダラこそ質おくものよ 
八わで戻そう  ワシャはち(木製品で食物の入物)いわん(はちの輪かえをしないこと)イイダ(輪かえ屋)ナンダラこそはちゆうものよ  
九わで戻そう  ワシャ鍬打たん、百姓ナンダラこそ鍬打つものよ  
十ぱで戻そう  ワシャ地(じ)は掘らん、百姓ナンダラこそ地を掘るものよ
 

『本浦集落の亥子唄』
おばさん一つ祝いましょう
大黒さんという人は
一で俵を踏んまえて
二でにっこり笑うて
三で酒造って
四つ世の中よいように
五ついつもの如くなり
六つ無病息災に
七つ何事ないように
八つ屋敷を広め建て
九つ紺星に蔵建てて
十でとうとう納めこむ
亥子の晩に餅つかんやつは
鬼産め蛇産め
角の生えた子を産め
この家分限者
繁盛せえ繁盛せえ

 
 

8. 大晦日の豆まき
 一般には、豆まきは節分に行うものであるが、真鍋島では大晦日にも行われている。各家では、赤飯とひら(高野豆腐、油揚げ、こんにゃく、椎茸等の煮物で仏教的精進料理)を炊き、この赤飯と煮付けた尾頭付きの魚を神棚にお供えし、豆まきをする。そして、これらのお供えを持って近隣の神々にお参りし、豆まきをしながら「福は内、鬼は外」と発声を繰り返す。帰り着けば、まだ新年を迎えてもいないのに、家族に対して「おめでとうございます」と口々に挨拶を交わすのである。
 よい年が迎えられることを願うということで、豆まきが大晦日に行われることは、理に適(かな)っているようにも思える。
 
 
 
 

第 2 節  宗 教 と 先 祖 供 養
 

1. 宗教への信仰対象
 古来より、宗教を拠(よりどころ)として心の安寧(あんねい)を求め、先祖供養により現世の苦難から救われんがために、宗教信仰が息づいてきたのであろうか。
 真鍋島には、宗教的な信仰対象として、地蔵菩薩を本尊とし、毘沙門天、不動明王を脇仏とする真言宗明鏡山『円福寺』に加え、行基作と伝えられる阿弥陀像が安置された『庵家(阿弥陀堂)』がある。
 『備中眞鍋島の史料』の「嶋數村堺萬覺書帳(しまかずむらさかいよろずおぼえがきちょう)延宝八(1680)年」によると、「是は行基の御作と申候阿弥陀堂御座候、真言宗円福寺一ケ所御座候」とあることから庵家も円福寺も既に、この時代には存在し、庵家の阿弥陀像は、この時代から行基作といわれていたことが窺える。
 この阿弥陀像は開眼像であることから珍品とされ、奈良薬師寺の二代目住職を務め、東大寺大仏造営に力を尽くした奈良時代の名僧行基作といわれ、近代になって専門家により調査が実施されたが、修復が重ねられているため判断困難ということで、行基作との断定には至らなかったようである。
 また、島内には、四国八八箇所を摸倣した札所が辻々にあり、円福寺境内の一角にその「真鍋島八十八ヶ所設立趣意書」の碑石が立てられている。
 
 
                                                             真鍋島唯一の寺院『明鏡山円福寺』 

2. 先祖供養の年中行事
 
 この真言宗門徒として勤め、あるいは、先祖供養における年中行事としては、以下のとおりであるが、昭和40年代初頭までは全て旧暦で行われてきたが、現在はほとんどが新暦に変わってきている。
 
 ①正月    二日  墓参 餅を板状に切ってお供え
                    三日  円福寺への初詣 
 ②二月一五日  御釈迦(おしゃか)「お釈迦様のお祭」
         ・墓参および寺参
                                    ・ 新仏が出た家は、ぼた餅、きな粉餅などをふるまう
 ③三月二一日  御大師様の十日参り
                                    ・「接待(せったい)」参拝者にお礼の品を配布
 ④八月一三日        迎え盆(盆の入り) 
                                    ・ 祖霊のお迎えの準備(墓掃除、仏壇あるいは祭壇の設置)
                                    ・ 祖霊のお迎えのため墓参  
                                    ・ 親類縁者の仏壇への参拝
                                    ・ 新(初)盆の家は庵家で「灯籠吊り」と「供養踊り」の主催
  八月一四日        盆の中日
         
・朝、茄子とヒジキと米を混ぜてお供えとして墓参
         ・新(初)盆の家は早朝に円福寺で看経(かんき)
        八月一五日        明け盆
         ・朝、茄子とヒジキと米を混ぜてお供えとして墓参
         ・夕方、割り木をお供えとして墓参

         ・夜は「送り火」、仏壇の蓮の葉に包んだ供物をロウソクに点火して海に流す
         ・新(初)盆から三年目は灯籠流し
 ⑤一一月最初の午(うま)の日 巳午(みんま)「新仏の正月を意味」
                                    ・ 新仏の供養とともに円福寺への参拝と供物持参
 
 

3
. 葬 送 の 儀
 葬送の儀は、真鍋島で唯一の真言宗「円福寺」住職を導師として行われ、通夜、告別式の日程は、寺の都合と暦(こよみ)により友引を避けるなど、住職と調整する。
 真鍋島での葬儀は、一般に、死者を布団に寝かせ、顔に白布を被せて、枕元には、一本箸や紙旗付きの箸を立てた枕飯を供物とする。
 棺(ひつぎ)は、箱棺で膝を曲げて座らせて土葬としていたが、現在では火葬との兼ね合いから寝棺が多くなっている。しかし、真鍋島で他界した場合は、焼き場が存在しないことから、現在でも土葬となる。
 末期(まつご)の水は、血縁の濃い者から、湯飲み茶碗に水を注ぎ、その水をしきび(しきみ)の葉で死者の唇を濡らす。
 棺は玄関から出し、箱棺の場合は葬れん御輿に棺を入れる。位牌を惣領や喪主が持って先頭に立ち、遺影、造花、枕飯、茶水、御輿、天蓋、御導師、会葬者などで葬列を作る。位牌を持つ者は白い羽織袴装束で、ロンジ(三角の紙)を頭につけ、輿守(担ぎ手)は白い肌着とパッチ姿で御輿を担ぐ。葬列は墓地まで進め、墓地に着くと予め掘ってあった穴に棺を埋めて、蓆(むしろ)を被せて土で覆い、造花や生花などをお供えする。そして、導師により読経とともに血縁の濃い順に会葬するのである。
 
   

4. 戒   名
 「戒名」とは、仏教において、仏門に入った証として与えられる名前で師僧によって出家修道者に与えられるものであり、また、故人が仏弟子として仏の浄土に往生するために、葬儀の前に住職によって授かり、故人の象徴として位牌や墓石に刻まれるものである。
 戒名を付けるにあたっては、特に規定はなく、一般的に四文字で、俗名の一字、生存時の業績、死亡時の季節などが盛り込まれるという。
 戒名の構成として、「院号(院殿)」、「道号」、「位号」があり、封建時代の身分制度の名残であるとか。
この戒名の格付けについて真鍋島では、一般的に「院居士(院大姉)」、「居士(大姉)」、「禅定門(禅定尼)」とされ、当然、身分制度の崩壊した現代にあっては、いかような戒名を付けることも可能ではあるが、戒名料に始まり、葬儀や法要の御布施、延(ひ)いては寺や仏具の修理代金の寄付金に至るまで、この格付けによって行われることから、故人の死亡時点での業績や経済性だけで卓越した戒名を付けることは、子孫を苦しめることにもなるといわれる。
 これらの葬儀、法要の住職への御布施は、檀徒総代の寄り合いにおいて、この戒名の格付けによって決められたというが、その額は定かではない。あくまでも、御布施である以上、取り決めるものではないのかも知れない。

5. 各年忌の法要と新(初)盆

 法要は、初七日から始まって四九日の七七日忌(しちしちひき)で忌明けとなるまで、七日おきに続ける。しかし、一般的には葬儀を終えた後、続けて初七日の法要が実施され、四九日の七七日忌の法要で忌明けとなる。
 そして、各年忌の法要が行われるが、一周忌は、亡くなった翌年の祥月命日で、満二年目には三回忌、以降は、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌まである。
 盆には、祭壇の準備をして仏様をお迎えして、住職に読経を依頼するが、現在では順番に各家を回っているようである。
 新仏の場合は、四十九日の忌明け後、最初に迎える盆を「新盆(にいぼん)」もしくは「初盆(はつぼん)」という。四九日前に盆を迎えた場合は、その年の新盆とはならない。
 新盆は、通常の盆のように先祖を迎えるだけではなく、自宅に住職とともに親類縁者を招いて法要が行われる。

 

6
. 看経(かんき)
 大辞林には、看経(かんきん)とは「声を出して経文を読むこと。読経(どきよう)。誦経(ずきよう)。」とあり、「かんき」とは、この看経のことで「かんきん」の変化したものであろう。
 真鍋島で行われている「かんき」とは、正(まさ)しくこの経文を読むことであり、念仏を唱えることである。
 告別式や法要は、僧侶の読経によって供養が行われるが、看経(かんき)とは、これとは別に親族が一堂に会して読経することをいい、岡山県や四国地方の地域独特のものであるらしい。
 初七日からはじまって七七日忌、そして、一周忌からの各年忌には、住職の読経が終わると、引き続いて看経(かんき)が始まるのである。
 看経(かんき)は、僧侶が参加しないため、親族あるいは知人に依頼してセンタチ(先立、先達)を決め、これに親族や招かれた縁者が続くのである。近年は、このセンタチになる者が少なくなり、録音機によって既に録音したものを再生することで、看経(かんき)が行われている。
 

   『かんきの経』

開経偈(かいきょうげ)                      (意訳)
 百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)  
無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭い遇うこと難し
 我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)        我れ今見聞し受持することを得たり  
 願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)        願わくは如来の真実義を解してまつらん

 此の所御本尊大師大神宮鎭守惣じて日本大小の
神祇今上皇帝寶祚延長國體鞏固萬民快樂現世安穩
父母師長六親眷屬乃至法界平等利益

懺悔文(さんげもん)                        (意訳)
 皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)          我れ昔より造りし所の諸々の悪業はみな無始の
 従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)      
貪瞋痴による身と語と意より生ずる所なり
 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)        
一切を我れ今皆懺悔したてまつらん

 によくよくさんげに さんさし しっそうじざいのそうようにちの ほうじょうそうでしむこう じんみらいさいけい ふうきょうきえ ほうきょうきえ そうきょうきえ
●にほんぼうじしったぶだーだや
(●三回繰り返す)

 一三ぶつさまのごしんごんには 一ふどう 二しゃか 三もんじゅ 四しゅうげん 五じぞう 六みろく 七やくし 八かんのん 九せいし 十あみだ 十一あしゅく 十二はだいにち 十三こくじぞう
●のうまく さんまんだ ばさらだんかん 
●のうまく さんまんだ ぼだなんびゃく
●おん あらはしゃや
●おん さんまやさとうばん
●おん かかかび さんまいえい そわか
●おん まい たれいや そわか
●おん ころころせんだり まとうぎ そわか
●おん あろりきゃ そわか
●おん さんざんさく そわか
●おん あみりた ていせいから
●おん あきしゅびや
●おん あびらうんけん ばさらさとうばん
●のうぼう あかしゃからばや  おん まりきゃ まりもり そわか
●おん えいまいえい そわか
●なむ だいしへんじょう こんごう

 こうみょうしんごんには
●おんごん あぶきゃべいろしゃのう まかぼだらばに はんどまじんばらはらばりたや

 おん がんにしくどく ぎょうせい いっさいがとうよう すじょうかいぐじょうぶつ いちいちこうみょうへんじょうじっぽうせいかいねんぶつ すいしょうせいかいねんぶつ
すいしょうせいいしふーしゃー
●なーむあーみだーんぶつ

せいいっさいがおつぼだいし おうしょう あんらん ここでおさめたてまつる
●あじじっぽうさんぜんぶつ みじょう いっさいのしょぼうさつ なぜはちまんしょじょうぎょうかいあみだぶつ

 しんしゅうしなののぜんこうじさま さんごくいちのおんにょらい なにわがいけのみだにょらい しなおくひとは ほんだよしみつ なにすわしことしなのはらっこうじ うすにおきます これぞさむしや みはここに こころはしなののぜんこうじ みちびきたまえみだのじょうどのあきらかに としわかいとてすえをはるかにおもうなよ むじょうのかぜはときをきらわぬものぞいや
●なむ あみだぶつ

 いちいちこうみょうねんずるところは てらしたまえ にちにちふだんのしょうみょうには こえをたずねてむかうなり せいいしかんのんだいこうには むねのレンゲもひらくなり ひらいたレンゲはおかさにめし つぼみのはなはおてにつけ はなのふごうはこずえにつけ
これ こうぼうだいしんさまの おつえのねんぶつ おんけん おんけん おんけんと これをさんべんとなうれば ねぶつ三万三千三百三十三どうの ごえいこうにもむかうとの ごせいがんなり
●あびら おんけん そわかなり

 だいこんごう じんだらりや
●のうまく しっちりや じびきゃなん たてがたなん まんびら じびらに まかしゃからばや さらていさらてい たらいたらいみたまに さんまん ちょうたらまちや いちたんりきや たらんそわか

●南無大師遍照金剛

     願以此功徳   普及於一切
     我等與衆生   皆共成佛道
    先祖代々    一家生霊   有縁無縁
    乃至法界   平等利益   南無阿彌陀佛

 
 

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. 光 明 真 言(こうみょうしんごん)
 光明真言は、一切の罪障を即時取り除き、死者を極楽浄土に導くという強力な真言であるといわれる。真鍋島では、この「光明真言」を唱えることで、死出の旅路の路銀になるという。地獄の沙汰も金次第とでもいうのか。
 四九日法要までに唱えた回数が、卒塔婆に書かれることから親族一同で唱え続ける。唱えながら思うは、生きて在るうちに、小遣いの一円でもとの後悔先に立たず。この後悔こそが、仏道の、そして光明真言の根本原理であるやも知れない。
 真鍋島における光明真言などの経は、口伝されたものであるため、少し発音が変化してきている。
 

        『光明真言』

「おん あぼきゃ べいろしゃのう
   まかぼだら まに はんどま 
     じんばら はらばりたや うん」

 

 

 光明真言はこの大日如来の御真言にして、一切の苦悩を解脱(げだつ)せしめる。

 初めに[「おん」と唱えるは、一切の みほとけに 身と心の誠をつくして 信じたてまつることをお誓いし、香華 燈明 飲食を供養したてまつる。

 「あぼきゃ」は不空と訳したてまつる。みほとけの自ら悟り、世のすべての迷えるものを導きたまう徳は広大無辺にして空しからず。

 「べいろしゃのう」は毘盧遮那にして光明遍照と訳し、大日如来の常恒説法の徳を表す、一切の みほとけの光明あわせたり。

 「まかぼだら」は訳して大印という、生仏同体を表す不ニの印にして、薬師如来の慈悲を表す。光明真言を唱うる人の 辛き病を救いたまうはこの真言の力なり。世の人の苦しみ悩みを除く大いなる働きあり。

 「まに」は この世とやがて往く世の幸いを、意のままになさしめる如意宝珠のことにして大日如来の福徳を円満せしめん誓いを表すなり。

 「はんどま」は西方浄土 阿弥陀如来の心中秘密呪にして、世の人々のすべての罪と過を消し、人本来そなえ持つ みほとけの心を開かせしめて浄き土に導きたまうなり。

 「じんばら」は光明にして、一切世間の闇を照らし行く釈迦如来の徳を表す。

 「はらばりたや」は苦しみを転じて悟りを開かしめる働きあり、かくて世の人々は多くの汚れを捨て去りて浄き人々となり、すべての三世を浄め行く。

 終わりの「うん」字は、地獄を破りて浄土となす大力を有し、恐怖を除きて、幸いを与える功徳そなえり。世の人々の悟りを求める心を守り、迷いと災いを除いて、みほとけ成らんと欲する願いを満たす力あり。

 善きかな、光明真言とともに生き行くものよ。されば、罪深く業重きと自覚ある人といえども、この光明真言の功徳を信じて唱えるときは、大日如来のすぐれし智恵の光明に浄められ、一切の罪障を消滅し、福徳智恵増して、わが世たのしく生きることを得べし。
 特に今は亡き人々の菩提をとむらわんがために光明真言を唱うるならば、必ず無量寿如来が表れて極楽浄土に導きたまう。
(出典:観音院常用教典「まことの道」)
 

                                                                                                                                                                        
 

8. 真鍋島の盆と盆踊り
 「盆」は、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、先祖の精霊を迎え追善の供養をする行事である。
 真鍋島での「盆」は、昭和四十年代後半頃まで、旧暦の八月一三、一四、一五日であったが、これ以降は、帰省者の盆休みに合わせるため、新暦の八月同日に行われることになった。
 盆の仕来(しきた)りとしては、一三日の朝、墓地に祖霊を迎えに行く、そして、夕方には親類縁者の仏壇への参拝、この日から翌日までに円福寺住職が各家の仏壇を順次廻る。そして、一五日の夜は送り火となる。祭壇の蓮の葉とお供え物を入れた箱船をロウソクを灯して海に流す。なお、祖霊を迎える時と送り火の時は、他人と会っても、会話は控えることとなっている。
 盆には、先祖供養の一環として「盆踊り」が、本浦と岩坪の集落ごとに実施されている。この盆踊りは、集落によって振り、所作に若干違いがあり、なかでも本浦の場合は後退しながら踊り、岩坪の場合は前進しながら踊るという根本的な相違がある。この狭き島にあって、統一することもなく、現在に至っていることに驚きさへ感じるが、何か歴史的な背景でもあったのであろうか。 
 
岩坪集落では、八月一三日は、庵家(阿弥陀堂)の境内で、一四日と一五日は、浜(公共広場)において、多くの帰省者を集めて、島じゅうの老若男女が、輪となって踊っている。昭和三、四〇年代の頃には、踊りの輪が二重三重となり、この踊りの輪を囲むように多くの見物人が出て、真夜中まで賑わいでいた。
 この真鍋島の盆踊りの歴史は古いことから、近隣の白石島踊りの如く、無形文化財としての申請を行ったようであるが、踊りそのものは、古(いにしえ)の時代を感じさせるが、歌詞が残されていないことから、その価値が認められなかったと聞かされている。この歌詞は、時代の変遷に連れて変化してきたという。しかし、歌詞が時代を映して変わることも、それなりの趣(おもむき)があるようにも思える。

 以下に「真鍋島の盆踊り」について『真鍋島新聞』に久一智生氏が寄稿した内容を記す。

 

『真鍋島の盆踊り』久一智生氏寄稿『真鍋新聞』(1981年8月1日発行辻正道氏)
 文治二(1186)年、藤原頼久一族郎党来島し、島の老若男女が、樽鏡(酒樽)を叩き、踊るを見分す。
 島の盆踊りは時代不明なるも、樽を叩いて音頭を取りつつ踊っていたが、頼久一族見分により、使者を都に遣わす。中納言の命により、都の有名なる芸人力丸来島し、振付指導をなす。太鼓は泉州より取り寄せ、庄屋の中庭にて習得せしものなりと。丹後宮澤の盆踊りと同じものであるとか。
(歌詞)
 一、チョイトコセー チョイトコセー チョイトコセ
   ヤレ まなべ よいとこよ 西北 うけて
   せみぞあらせが(コラエー コラエー)そよそよと  
   ヤレコラセ エー ヤレー 
   せみぞ あらせが そよそよと 
   ヤレコラセ ヨーイヤナー
 一、チョイトコセー チョイトコセー チョイトコセ
   ヤレ 盆が来たらこそ 粟に米 まぜて  
   それに ささげを うちまぜて
   エー ヤレー 
   せみぞ あらせが そよそよと
   ヤレコラセ ヨーイヤナー
 一、チョイトコセー チョイトコセー チョイトコセ
   ヤレ 船も 早かれ 追手も よかれ
   なには さこばの値も よかれ  
   エー ヤレー
   せみぞ あらせが そよそよと
   ヤレコラセ ヨーイヤナー
 一、チョイトコセー チョイトコセー チョイトコセ
   ヤレ 桜三月 六月ぼたん
   菊は九月の 土用に咲く  
   エー ヤレー 
   せみぞ あらせが そよそよと
   ヤレコラセ ヨーイヤナー
 一、チョイトコセー チョイトコセー チョイトコセ
   ヤレ 今宵一夜は 千夜にむかふ
   とりも唄うな 夜も明けな  
   エー ヤレー 
   せみぞ あらせが そよそよと
   ヤレコラセ ヨーイヤナー
 一、チョイトコセー チョイトコセー チョイトコセ
   ヤレ 踊りませうぞ こよいが限り
   お月 山端(やまは)に かかるまで  
   エー ヤレー 
   せみぞ あらせが そよそよと
   エーヤレコラセ ヨーイヤナー
   (道西喜代吉翁の覚書より)

 
 
              
     庵家(阿弥陀堂)境内での盆踊り                             浜(公共広場)での盆踊り
 
 
9. せったい
 現在では「接待(せったい)」といえば、客に茶菓や酒食を供してもてなすこと、あるいは、得意先に心配りをすることなどであるが、もともとは仏教用語の「摂待(しょうたい)」のことであり、僧侶をを供応する布施の一種であったといわれる。
 真鍋島では、旧暦三月二一日の御大師様の十日参りに、八八ヶ所霊場をお祀(まつ)り、あるいは、管理しているそれぞれの家が、島じゅうの参拝者に「せったい」と称して、お礼の品を配布する。この品といえば、昔は甘酒やおにぎり、そしてマッチなどであったが、近年はジュースや袋菓子となっている。
 参拝者は、日頃の信心とは関係なく、この日だけは大きな袋を背負い、「せったい」を目的に島じゅうを歩く。そして、この配られた品で、いつしか、背負った袋がいっぱいになるのである。
 
 

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