1. 位 置 と 境 域
岡山県の西南端、瀬戸内海の中程に位置(緯度34.213996、経度133.357153)し、岡山県の西部、笠岡港から19㎞の笠岡諸島の島列南端に浮かび、南を香川県との県境に接する周囲8㎞、面積僅か1.65㎢の島である。
青く透明な海に浮かぶ内海多島美という特異な景観形成の一翼を担い、わが国最初の国立公園として昭和9年に指定された『瀬戸内海国立公園(笠岡諸島等の島々)』の区域内にある。
昭和30年までは、岡山県小田郡に属し、村制が敷かれ、属島として六島に加え、無人島の大島、茂床島、問島、ハブ島を擁し、その海域を含めると広大な面積を占めていた。そして、昭和30年に、岡山県笠岡市に編入され、現在に至っている。
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2. 気 候
瀬戸内海式気候と呼ばれ、北は中国山地、南は四国山地に遮られて、冬季の北西季節風、夏季の南東季節風が和らげられるため、温暖寡雨の穏やかな気候で、晴天日数や日射量の多いことが特徴である。
特に真鍋島は、瀬戸内海の中程に位置することから、四国山地の吹き返しの影響も受けず、周囲の海水温によって温められることで、冬でも降霜を見ることがない。
3. 地 形
東西に長く、東に城山(標高127.1m)と西に山の神(標高120.7m)を擁し、中央部はなだらかな地形で、正に瓢箪形を成している。
集落地は、東西の山裾、北斜面に広がり、東集落を「岩坪(いわつぼ)」と称し、急峻で斜面に張り付くように家屋が軒を並べ、西集落を「本浦(ほんうら)」と称し、埋め立て地に集落が広がった経緯から比較的平坦で区画も整然としている。
4. 地 質
花崗岩と一部古生層の粘板岩からなっていることから、島の形成は火山活動による隆起と考えられ、この岩盤の上に砂質混じり褐色土が覆っているため、耕地として活用されている。
また、島の中央部には飴色の砂岩が露出し、これに松などの根が絡みつくように植生していることで独特の景観を醸している。
5. 動 植 物
哺乳類は、飼い犬と漁村特有の野生化した猫に加え、ほとんど見ることはないがイタチがいるといわれる。
鳥類は、多種の野鳥が生息し、メジロ、ウグイスなどに加え、人口繁殖させたキジがいる。
なお、近海には「ナメソ」と呼ばれるイルカ科のスナメリと天然記念物に指定されている生きた化石カブトガニが生息している。
植物は、瀬戸内特有の松とばべ(ウバメガシ)を中心とした自然林が広がり、人工的にはミカンなどの柑橘類が食用のため植樹されている。
第 2 節 社 会 的 環 境
1. 人 口
現在(平成17年国勢調査)の人口は312人、世帯数は163世帯。平成7年から平成17年までの10年間における人口動向をみると、約36%の減少率となっており、昭和35年からの50年間での人口推移をみると約7分の1にまで減少している。
また、この表による解析はできないが、人口に占める高齢者の割合は大きく増加しており、正(まさ)に消滅の危機に瀕した「限界集落」の体である。
なお、別の笠岡市史編纂室の資料によると『昭和25年当時戸数681世帯人口3,061人』とある。出稼ぎなどの人々も住民登録していた関係で国勢調査との差が出ているのかも知れないが、戦後間もなくの頃の真鍋島は、賑わいでいたことが分かる。
真鍋島の人口・世帯推移(国勢調査)
年 | 昭和25年 | 昭和30年 | 昭和35年 | 昭和40年 | 昭和45年 | 昭和50年 |
人 口 | 2,172 | 2,065 | 1,635 | 1,304 | 1,059 | 875 |
世 帯 数 | 467 | 428 | 395 | 368 | 337 | |
年 | 昭和55年 | 昭和60年 | 平成 2年 | 平成 7年 | 平成12年 | 平成17年 |
人 口 | 761 | 643 | 553 | 491 | 390 | 312 |
世 帯 数 | 310 | 275 | 250 | 228 | 188 | 163 |
次の資料から真鍋島における江戸時代の人口の推移をみると、江戸期の日本の総人口が三〇〇〇万人前後といわれており、現在の三分の一程度であったことを考えると、真鍋島の人口が現在よりも多く、最盛期の昭和三〇年代と変わらない一五〇〇人を上回る人口を擁していたことは驚くべきことである。この時代、漁業などの産業が盛んでなければこの狭い島で、これだけの人口を抱えることはできないはずであり、江戸期の真鍋島の繁栄振りの一端を垣間見ることができる。
江戸時代の真鍋島の人口(笠岡市史編纂室資料より)
年 号 (西 暦) | 戸 数 | 人 口 | 牛 |
寛文11 (1671) | 91 | 643 |
35 |
元禄14 (1701) | 118 | 741 | – |
享保 元 (1716) | 120 | 967 | 15 |
寛保 元 (1741) | 188 | 1318 | 41 |
宝暦 5 (1755) | 288 | 1537 | – |
天明 8 (1789) | 260 | 1549 | 15 |
小学校及び中学校がそれぞれ一校、本浦集落の南側山裾に存在し、平成17年度現在の生徒数は、小学校7人と中学校6人である。
3. 医 療 施 設
診療所が一箇所存在するが、医師は常駐ではなく、現在では曜日による定期的な派遣となっている。昭和50年代頃までは、診療所には医師1名と看護婦1、2名は常駐していたが、人口の減少によって医療施設も規模縮小を余儀なくされているのであろう。
なお、定期船の高速化や海上タクシーなど交通手段の発達から、本土の病院への通院や緊急患者の搬送は、比較的容易となってきている。
4. 福 祉 施 設
保育所が本浦集落に一箇所と福祉目的の会館(岩坪会館、ふるさとふれあいセンター)が各集落に一箇所存在する。保育所は、昭和37年に設立、37年4月から開所され、当時は村役場であった建物の一室を使っていた。また、それぞれの集落にある会館あるいはセンターは、従来、公民館と称していたものを建て替えて改名したようである。
そして、各集落には公園や広場が整備されており、島民の憩いの場としての、あるいは子供たちの遊び場としての目的を果たしている。
なお、離島というハンディの前に福祉施設の利用がままならない状況を克服するため、平成5年1月27日、日本初の福祉の船「夢ウェル丸」が建造され、島嶼部の福祉活動が行われている。
5. 水 道
水道のない時代が長く続いたが、昭和55年より、陸地から海底送水管での給水によって、水道普及率は100%となっている。水道のない時代は、井戸水を使用していたが、ほとんどの家に井戸はなく、共同井戸までの水汲みが家事として大きな負担となっていた。また、海苔加工場が増えた昭和40年代は、水不足が頻発したことから共同井戸は、時間制限や各戸への分配が行われるなど、度重なる日常生活への支障と相俟って、水道への期待は極めて大きいものがあった。
6. 廃棄物と下水処理
不燃物、可燃物については、平成初期から定期収集により本土処理を実施し、下水道については、平成14年度に漁業集落排水管きょ施設と処理場の完成により、下水道の水洗化が始まった。
昭和60年代頃まで不燃物も可燃物も島内で焼却あるいは海に投棄しており、平成になって自然環境保護の観点から収集が始まった。また、屎尿については、昭和50年代頃まではほとんどが畑の肥料とされていたが、この作業が精神的にも体力的にも大変な負担であった。
これ以降、昭和50年代後半から市の小型バキューム車が収集を行うようになり、そして、平成14年に下水道管きょが集落内に隈無く敷設され、下水処理場を設置することで、水洗化が実現したのである。
第 3 節 産 業 と 文 化
1. 産 業
真鍋島における産業は、瀬戸内海の温暖な気候や豊かな漁場を背景として、農業や漁業の第一次産業が中心に行われているが、時代の変遷とともに産業構造や就業人口にも変化が見られる。
農業は、古くから食料自給のため、甘藷や麦(小麦)などが収穫されてきたが、昭和27年から寒菊を中心に花づくりが行なわれるようになった。かつては、「花の島」として知られ、島全体が色着くほどの花作りが行なわれていたが、生産者の高齢化が進み、後継者不足から生産農家も極めて少なくなっている。このことから段々畑には雑木が繁茂し、島の景色も大きく変化している。なお、平成13年からゴーヤの栽培が行われ翌14年から集荷を行っている。
漁業は、周辺海域が瀬戸内海潮流の合流点であり、有数の好漁場となっていることから、昭和40年代までは漁業関係者が多数を占めていた。しかし、干拓や工場排水により魚影は薄くなり、後継者不足から漁業者が激減している。現在は、底引き網、刺し網、敷網などにより、エビ、カニ、カレイ、タイ、イカナゴなどの水揚がある。
第二次産業は、海苔・フグの養殖も僅かながら行われており、海苔は工場において板海苔に加工され、出荷している。
第三次産業としては、昭和五三年に島全体が岡山県のふるさと村に指定されており、島の民具資料などを展示している 「ふるさと村資料館」 と四季折々の花を楽しむことができる「真鍋島ふれあいパーク」が整備され、海水浴、釣客を含め年間約一万四千人の観光客が訪れることで、旅館や民宿などが営まれている。
(産業構造)
区 分 | 平成2年調査 | 平成7年調査 |
平成12年調査 |
第一次産業 | 125人 |
95人 | 70人 |
第二次産業 | 33人 | 17人 |
16人 |
第三次産業 | 87人 | 80人 |
67人 |
就業者総数 | 245人 | 192人 |
153人 |
二次 産業の減少が顕著である。一次産業では、高齢化による漁業者の減少が影
響を与えていると考えられる。
『岩坪港の風景』
真鍋島の漁業は、昭和の全盛から漁船数は減少したものの、船の大型化により岩坪港も昭和末期に防波堤が改修され、港内は広がった。大型の船には、底引き網が積まれている様子が窺える。
『往年の真鍋島』
真鍋島は、「天耕の島」とも呼ばれ、狭い島故、島のあらゆる土地を耕し、頂上まで耕地としていたことから、その名が付いたものであるといわれる。
昭和四〇年代頃までは、島じゅうに絨毯を敷き詰めたかのように花が咲き誇り、正しく『花の島』そのものであった。次の写真は、当時の真鍋島の風景であり、『花の真鍋島』と呼ばれた往時が偲ばれる。
この当時は、大島(無人島)にまで渡って花が栽培されていた様子が窺え、現在と島の景色の違いに驚かされる。
山陽本線の笠岡駅より徒歩5分、笠岡港住吉桟橋から定期船が出航している。所要時間は高速船で約45分、普通船で約70分であるが、これらの定期船は他の島にも寄港する。この外、海上タクシーによる渡航(所要時間約30分)も3~5社が営業している。
なお、買い物や病院への通院など住民の日常生活との関連で、島相互間の結び付きよりも本土笠岡と密着した交通体系が形成されている。
航 路 | 船 種 | 所 要 時 間 | 便 数 | 離 着 場 所 |
真鍋島~笠岡 | 高 速 船 | 約45分 | 1日 5便 | 本浦港 |
真鍋島~笠岡 | 普 通 船 | 70~75分 | 1日 4便 | 本浦港、岩坪港 |
真鍋島~六島 | 普 通 船 | 15~25分 | 1日 2便 | 本浦港 |
○県指定重要文化財
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