第2章 真鍋島の歴史

          第1章 真鍋島の概要      第3章 真鍋氏の真実       第4章 真鍋島の信仰      第5章 真鍋島の習俗

                                                                 

       【 真 鍋 島 及 び 水 軍 関 係 略 史 】 

 西 暦 (年  号)       記              事
 555 (欽明一六) 吉備白猪に屯倉置く
 556 (欽明一七) 吉備児島に屯倉置く
  

 645 (大化 元) 大化の改新
 661 (斉明 七) 新羅征討の軍進発
 663 (天智 二) 白村江の戦い(日本軍、唐の水軍に惨敗)

 684 (天武一二) 吉備国の分国(備前国、備中国、備後国に分割)により小田郡編制
            ・真鍋島は備中國小田郡魚渚(いおすな)郷に属す 『小田郡誌』 
            ・「眞南辺(眞那辺、眞奈辺)」と書かれていた  《眞鍋島伝承》
 713 (和銅 六) 吉備国の再分国(備前、備中、備後、美作の四国に分割)
            畿内七道諸國郡郷名着好字の制
           
「地名は好事を選び必ず二字にせよ」と勅令により「眞鍋」と改名
 756 (天平 八) 山陽南海諸国の春米の海路運送命令
 806 (大同 元) 山陽道の新任国司への海路赴任命令
 838 (承和 五) 山陽南海道諸国の国司海賊追捕
 862 (貞観 四) 山陽南海一三カ国の海賊追捕命令
 867 (貞観 九) 山陽南海の海賊を追捕
 881 (元慶 五) 再び山陽南海諸国の海賊を追捕
 933 (承平 三) 南海の海賊横行
 939 (天慶 二) 藤原純友、南海にて反乱
 941 (天慶 四) 小野好古、源経基等、純友の乱平定
1129 (大治 四) 平忠盛、山陽南海の海賊を追捕
1135 (保延 元) 忠盛、海賊の首領追捕
1168 (仁安 三)
 西行法師、真鍋島へ来島 
《真鍋島伝承》 『児島風土記』
            ・八幡宮上方に「西行の座り石」が残る 《真鍋島伝承》
            ・「まなべしま」を詠んだ歌が残る
『山家集』
1183 (寿永 二) 源平水島の戦い
1184 (元暦 元) 源平一ノ谷の戦いにて「まなべ四郎・五郎」の活躍
『平家物語』『源平盛衰記』
1185 (元暦 二) 源平屋島の戦い、源平壇ノ浦の戦い
            ・源平合戦の平家一類墳墓「まるどうさま」建立 《真鍋島伝承》
1186 (文治 二) 藤原頼久一族郎党来島 《真鍋島伝承》
            ・真鍋城の築城《真鍋島伝承》
            ・真鍋城を本拠とし笠岡諸島や塩飽諸島など広範な領地領海を統治 『小田郡誌』
1336 (建武 三) 湊川の戦い
            ・真鍋貞満・
貞友兄弟、足利尊氏の入京に助勢 《真鍋島伝承》
1338 (暦応 元) 足利尊氏、光明天皇より征夷大将軍に補任(室町幕府成立別説)
            ・真鍋水軍の英傑「貞友」京より真鍋島に帰省
《真鍋島伝承》
            ・岩坪地区に数多くの五輪塔(真鍋氏の墓)を建立(平安末期から戦国末期)
            ・貞友、母の菩提を弔うため庵家(阿弥陀堂)を建立
《真鍋島伝承》
1350 (正平 五) 倭寇、高麗の沿岸を侵略
           
・真鍋水軍、塩飽水軍八幡船にて倭寇を働く 《真鍋島伝承》
1367 (正平二二) 高麗使、倭寇の禁要請
1402 (応永 九) 義満、倭寇を禁止
1453 (享徳 二)
 真鍋貞友『真鍋先祖継圖』を作成  
『備中眞鍋島の史料』 『小田郡誌』
           
・別の貞友出現説(『真鍋先祖継圖』よりの判断)『小田郡誌』『笠岡市史』 
            ・貞友の知行地は慶長四年まで無年貢地として子孫が支配
『小田郡誌』
1467 (応仁 元) 応仁の乱
1576 (天正 四) 織田信長安土城築城、石山本願寺と戦火を開く
            ・信長「真鍋水軍への警戒の書状」を荒木村重に送る
『笠岡市史』
           
・毛利水軍、織田水軍を破り、本願寺へ兵糧搬入成功(第一次木津川口の戦い)
1578 (天正 六) 信長方戦艦六艘と毛利方西国船六百余艘による海戦(第二次木津川口の戦い)
            ・九鬼水軍の六艘の装甲船に積んだ大鉄炮により毛利水軍敗れる
『信長公記』
588 (天正一六) 豊臣秀吉により「刀狩令」、「海賊禁令」が出される
1592 (文禄 元) 文禄の役
1597 (慶長 二) 慶長の役
1598 (慶長 三)
 真鍋氏所領没収され終焉を迎える 『備中眞鍋島の史料』

1600 (慶長 五) 関ケ原の戦い
            ・真鍋氏、関ヶ原の戦いにて大敗 《真鍋島伝承》
            ・真鍋島は徳川氏の代官小堀氏の治下となる 『小田郡誌』
            ・善兵衛(真鍋島庄屋の元祖)へ庄屋役が命ぜられる 『小田郡誌』
1617 (元和 三) 松山の池田氏の領となる
1619 (元和 五) 福山の水野氏の領となる
1685 (貞享 二)
 眞鍋嶋庄屋傳右衛門『覚』『口上覚』文書作成
『備中眞鍋島の史料』
1696 (元禄 九) 八幡神社の新築記念の行事として走り御輿が行われる
1698 (元禄一一) 再び幕府直轄領となり、笠岡代官の治下となる
1827 (文政一〇) 円福寺八八ヶ所創設碑(真鍋八八ヶ所の謂われ)
1868 (明治 元) 明治の治世により倉敷県への所属
1870 (明治 三) 苗字を許す布告 太政官布告により平民にも苗字許可の布達
1871 (明治 四) 深津県の成立
1872 (明治 五) 深津県は小田県と改称
1875 (明治 八) 岡山県への合併
1878 (明治一一) 郡区町村編制法の施行に伴い村に戸長設置(小田郡役所笠岡に設置)
 

 
 
 

第 1 節 古 代 の 歴 史 

1. 神話の瀬戸内海と古代真鍋島の集落形成
 神話
の冒頭は、どの民族でも創世の神たちの物語から始まる。日本神話においても同様、神々の誕生と神々による天地創造の物語から始まっている。
 
我が国最古の史書ともいうべき『古事記』や『日本書紀』には、諾冊(だくさつ)二尊(伊弉諾尊・伊弉冊尊)による天地創造の物語「国生み神話」が記されている。
 この『古事記』の「国生み神話」には、「淡道之穗之狹別(あわじのほのさわけ)の嶋(淡路島)」、「吉備の兒嶋(こじま)」、「小豆嶋」、「大嶋」と瀬戸内海の島々の名が記され、瀬戸内海が、そして瀬戸内海の島々が、如何に重要視されていたかが推察される。
 また、桃太郎伝説のモデルともなったといわれる四道将軍の一人として西道に派遣された吉備津彦と温羅(うら)の戦いなど、この吉備地方は常に歴史の表舞台であった。
 さらに、『日本書記』には、欽明天皇一六(555)年の吉備五郡の白猪に続いて同一七(556)年に児島に屯倉(朝廷直轄地)が置かれたことが記されている。五世紀後半の吉備の反乱の後、大和朝廷の吉備制圧の政治的拠点として、朝鮮への門戸である福岡とを結ぶ中継地として、吉備国の沿岸地域は重要な地であったことが窺える。
 こうして、神代の昔から瀬戸内海が主要な交通路としての役割を担い、吉備国が我が国の主要な歴史に関わってきた以上、吉備国の島々も重要な位置を占めてきたのであろう。
 
『小田郡誌(上巻)』によれば、「小田郡の名は神代史に見えざれども、諾冊二尊(いざなき・いざなみ尊)の経営し給える吉備の児島、及び大島の見ゆ。されば近接せる我郡の度外視せらるる筈なし。以て本郡の開拓及び文化の発祥が、極めて遼遠なる時代にありしを知るべし。」と記されており、『日本書紀』の神武天皇東征の順路としての吉備高島宮駐輦(ちゅうれん)の場所として諸説あるが、「最も有力なる候補地と見るべきは、本郡神島、高島、白石島の一帯の地なり」として、多くの貝塚や古墳の存在、縄文式や弥生式の土器の出土など、その理由を上げている。
 『笠岡市史(第一巻)』には、「笠岡の歴史は今から一万数千年前の旧石器時代に始まった。昭和二八年(一九五三)に明地島で旧石器人類の遺物が鈴木義昌らによって発見された。明地島は神島と高島の間に浮かぶ南北七〇〇メートル、東西三〇〇メートルばかりの無人島であるが、その南北に延びた標高約五〇メートルの稜線から発見されたサヌカイトと呼ばれる石材を加工した石器は、土器をつくることを知らない旧石器時代人の生活の道具であった。このような旧石器時代人の息吹きを見ることのできる地は明地島以外にもある。それは、明地島の南に並ぶ高島、更に南に連なる笠岡諸島の北木島や六島、また笠岡湾干拓によって本土の一部となった片島や、笠岡市域の北端、阿部山などからも同じような石器が発見された。」とあって、この島嶼地域における人類の文明のあけぼのが旧石器時代に遡ることを記している。
 
真鍋島においては、旧石器時代の遺物は発見されていないが、西北端丘陵地帯で、明治三四年に土師器と須恵器が発見されている。土師器は、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代~奈良・平安時代まで生産され、須恵器は、古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器で、古墳時代の中頃(五世紀前半)に朝鮮半島から伝わった焼成技術をもって焼いたものである。
『笠岡市史(第一巻)』には、この遺跡名を土器発見場所から「天神鼻遺跡」として、土器の生産された時代を「縄文早期」としている。
 この遺跡が、縄文早期であるとの根拠は不明であるが、これら土器の発見によって、少なくとも土師器、須恵器が生産された時代には、既に、この島にも住人の存在したであろうことが確認できる。しかも、ここで発見されたものは祭祀用土器といわれ、当時、この島で祭祀が執り行われていたということは、社会的組織の存在、つまり集落形成が進んでいたことの証でもある。
 
ここ真鍋島も、遼遠なる時代から、おそらくは近海の豊かなる漁場を背景として、魚介類を採取することで人々の生活が営まれ、集落が形成される中で、海の民として瀬戸内海における文化・文明の発祥の役割を担ってきたものと考えられる。

2. 交通の要衝の瀬戸内海と真鍋島
 
神代(かみよ)の昔より、悲惨なる戦いはただ空しく繰り返され、止むことを知らず。海の交通が主流であった古(いにしえ)の時代、この瀬戸内海が主戦場とならないまでも、交通の要衝としての瀬戸内海の島々は、この影響を受けてきたのである。
 古代の朝鮮半島に覇権を争った斉明七(661)年の「新羅との戦い」、また、その後、天智二(663)年の「白村江の戦い」は水軍同士の戦いであったことから、瀬戸内海はこの船団の交通路として、そして、島々の住人はその兵員として参戦を余儀なくされていたのかも知れない。
 
『笠岡市史(第一巻)』にも、「物資や人の輸送の中で、特に注目しなければならないことは国際関係の激化とそれに伴う海外派兵の問題である。とりわけ朝鮮の諸国に対し、六~七世紀の間に少なくとも十数次にわたる出兵がなされたが、このときの兵士の徴集、船舶の徴発が瀬戸内海を中心に行われたことはよく知られている。」とあり、「笠岡地方を含めた所で兵士の徴発がなされ、海上には兵員輸送の船舶が往来したことであろう。」と記されている。
 
また、これら戦時における往来だけではなく、古の時代には遣唐使や各地に赴任する官吏、そして、守備に任じられた防人も、この瀬戸内海を渡っており、『万葉集』や『古今和歌集』には、この航海の途に詠んだ歌が多く残されている。
 
難波津に御船泊てぬと聞え来ば紐解きさけて立ち走りせむ (万葉集 巻5・896)
ともしびの明石の大門に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず
(柿本人麻呂 万葉集 巻3・254)
天離るひなの長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
(柿本人麻呂 万葉集巻3・255)
淡路の野島の崎の浜風に妹が結びし紐の吹きかへす
(柿本人麻呂 万葉集 巻3・251)
牛窓の波の潮騒島響み寄さへし君に逢はずかもあらむ
(作者未詳万葉集巻11・2731)
倭路の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも(大伴旅人 万葉集巻6・967)
月よみの光を清み神島の磯廻の浦ゆ船出すわれは(万葉集 巻15・3622)
吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき(大伴旅人 万葉集巻3・446)
鞆の浦の磯のむろの木見むごとに 相見し妹は忘らえめやも
(大伴旅人 万葉集巻3・447)
熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
(額田王 万葉集 巻1・8)
ほのぼのと明石の浦の朝ぎりにしまがくれゆく船しぞ思ふ
(古今和歌集 巻9・409)
わたつ海のかざしにさせる白砂の浪もてゆへるあはぢしま山 (古今和歌集 巻17・911)
    
 この時代の航路としては、難波の津から明石海峡を経て、備前・備中・備後の島々、浦々を伝って周防灘に進んだことが窺える。
 「真鍋島」を詠んだ歌は見当たらないが、この古人(いにしえびと)が舟から真鍋島を臨み、あるいは、風待ち、潮待ちのため寄港していたかも知れない。

 なお、時代は降るが孝謙天皇の天平勝宝八(756)年、朝廷太政官から「山陽・南海の諸国の春米は、自今以後、海路をとって、漕送れ」という命令が出されている。この当時は、陸路より大量輸送が可能な海路の方が、はるかに便利であったはずである。大同元(806)年には、「山陽道の新任国司は海路より任に赴く事」との命が出されている。
 こうして古来より、戦時体制下に限らず平時においても、瀬戸内海は人びとの往来から物資輸送まで、交通の要衝として位置づけられていたのである。

  この瀬戸内海が、交通の要衝であれば、当然、瀬戸内海の中程に位置し、その航路と接する真鍋島は、舟の泊まりとして、あるいは水や食料の補給地として、大きな役割を担ってきたはずである。

3.「眞南辺」から「眞鍋」へ
 大化の改新以降、七世紀後半に吉備国が備前国、備中国、備後国に分割されて、小田郡もその時に成立したという。吉備国であった真鍋島は、この分国ときに備中国に、そして、小田郡魚渚(いおすな)郷に属することになった。
 
『小田郡誌(上巻)』は、吉備分国を「天武天皇の十(682)年から文武天皇の元(697)年迄の間に分かれたること疑なし。天武天皇一二(684)年冬一二月、諸國(国)の境界を限分す。然も、是年限分に堪へずとあれば、吉備の分國も恐らくは此時にて、天武天皇の一二年、十三年の頃なるべし」とし、「元明天皇の和銅六(713)年、備前六郡を割きて美作國を置かれ、茲に吉備國は備前、備中、備後、美作の四國となりたるなり。」と記している。
 
また、「小田郡の名の始めて記されたるは、延期式、和名抄及び令義解なるべし。小早川秀雄の吉備國史には、此國の本郡に於ける里名は不詳なるも、和名抄によれば良郷八あり。」として、八郷のうち「魚渚(いおすな)郷を笠岡町、金浦町を中心とした付近一帯」としていることから、笠岡諸島、延(ひ)いては真鍋島もこれに属したものか。『笠岡市史(第一巻)』も「魚渚郷は金浦を中心とした笠岡付近に比定されるが、金浦の旧名、西浜(ようすな)は、『以乎須奈』の読みのなごりとされる。」と記し、「当時の郷域を復原することは不可能なこと」としている。
 郷域の復原は不可能であっても、真鍋島の位置から中国地方側(備中國)と四国地方側(讃岐國)のどちらに属したものか、その境域への疑問が残る。しかし、
『真鍋島の伝承』では、「『真鍋』の名は、備中國の一番南の島という意で『眞南辺』であった」といわれてきたことからも、四国側に属した島なれば「一番南」とはならないため、この当時から中国側であったものであろう。
 そして、『眞南辺』の名は奈良時代に入って、和銅六(713)年の「畿内七道諸國郡郷名着好字の制」による「およそ地名は好字を選び必ず二字にせよ」という勅令によって、『眞鍋』と文字を改めたものと考えられる。

 『地名表記の二字・好字化』
 奈良時代初期、政府は歴史書の編纂などを行って国家の勢威を誇示する一方、農業をはじめとする諸産業の発達を奨励し、中央集権体制を強化する政策を次々に実施した。『続日本紀』和銅六年(713)五月二日条に「制、畿内七道諸国郡郷名着好字」とあり、これに基づいたとみられる『延喜式』民部省には「凡諸国部内郡里等名、並用二字、必取嘉名」とみえる。それまで一~四字と不統一で、一つの地名に幾通りもの文字使いがあった国・郡・郷(里)などの行政地名を、中国風の二字・好字に改訂し、固定化させようとしたもので、中央政権の地方支配を貫徹せんとするものであった。なお国名については、すでに大宝令制下で改訂が進んでいたとみられ、郷名の改訂が完成するのは神亀年間(724~729)に至ってからと推定されている。この政策は漢字表記の次におとずれた地名変革の第二波といえる。
(出典)『日本歴史地名大系』   
      
 
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第 2 節 中 世 の 歴 史

1. 西行来島と『山家集』に窺(うかが)える真鍋島の繁栄
 北面の武士から出家したことで知られる僧侶で歌人の西行は、「願わくば花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」と自らの死期を予言するかのように、辞世の句を残し、その生涯を閉じたという。
 この西行は、平安末期の動乱の世を生きながらも、自然と人間を愛し、これを題材として『古今和歌集』や『千載和歌集』に数々の歌を残している。
 真鍋島の伝承によれば、「平安の昔、西行法師の来島せし、八幡宮近傍には『西行の座り石』と呼ばれる石あり。」
と、現在の道路は海岸線に沿う形で存在するが、西行来島の時代における連絡道は、この辺りを通っていたのであろうか。
 この真鍋島への来島を証すものとして西行は、『山家集』に真鍋島を詠んだ歌を一首を残している。

【詞書】(ことばがき)「場所や背景などを述べた前書き」

   「まなべと申す島に、京よりあき人どものくだりて、やうやうのつみのものどもあきなひて、

        又しはくの島に渡りてあきなわんずるよし申しけるを聞きて」
【和歌】

  『まなべよりしはくへ通ふあき人はつみをかひにて渡るなりけり』 
 

 西行は、生涯にわたって諸国を行脚、遍歴したことで知られ、『吉備群書集成(歴史図書社発行)』の邑久(おく)郡の項にも「西行腰縣石。同村に在り。西行法師諸國修行の時、ここに来り、此石に腰かけしといへり」と書かれていることから、まだ他にも「座り石」や「腰掛け石」が存在するのかも知れない。
 自然と人間を愛し、宗教的境地をも取り入れるという西行の文学的特色は、『山家集』において最もよく表れているといわれる。
 真鍋島を詠んだ歌は、この宗教的境地からみると「つみ」とは、“積み荷”ではなく、“罪(つみ)”であったかも知れない。いずれにせよ、この歌の内容から古(いにしえ)の真鍋島の繁栄ぶりを窺(うかが)うができる。
 
特に、『詞書(ことばがき)』には、「京よりあき人くだりて」とあり、京の都からさへも商人が来島するほどの賑わいが窺え、こうした島なるが故に、西行にも足を向けさせたものであろう。
 
また、西行は同じく岡山県下の玉野市渋川においても、歌を詠んでいる。

     『おり立て浦田に遊ふ海士(あま)の子は罪よりつみを習ふなりけり』

 ここでの「つみ」とは“つぶ貝”であるとか。
 
西行は、生涯に二度西国への旅をしている。西行三五歳の仁平二(1152)年と五一歳の仁安三(1168)年である。『児島風土記』によると、最初の西国旅行は、「平清盛による厳島神社の社殿修造が成り、それへの参拝の途中立ち寄ったもの」とあり、再度の旅は、「嵩徳院の讃岐白峯御陵に参拝し御霊を鎮め、また弘法大師の遺跡を巡礼することが目的であった」という。この西国への再度の旅により、真鍋島を始め、児島・渋川・牛窓等への足跡が、『山家集』に残されたのである。
 なお、西行の来島は、長寛元(一一六三)年との郷土史家の説もあるが、西国への旅は二度、このうち四国への渡航は再度の旅においてであり、歌の内容からも真鍋島より塩飽の島々を伝い四国へと渡った様子が窺え、真鍋島への来島は、仁安三年(一一六八年)であったと考えられる。

2. 『まなべ四郎・五郎』の活躍と「まるどうさま」伝承
 
源平合戦では、『まなべし氏』は平家側に従って水島合戦、一ノ谷の戦いと、転戦したといわれ、『まなべ四郎・五郎兄弟』が一ノ谷の合戦で活躍している様子が、『平家物語』と『源平盛衰記』に記されている。
 
『平家物語』は、この「まなべ四郎・五郎兄弟」を「備中国住人」としているが、『源平盛衰記』は、「讃岐国住人」としている。
 『小田郡誌(上巻)』は、「源平の戦は其の後半に於て、瀬戸内海を舞台としたるを以て、本郡に属する大小の島嶼は、其影響を蒙りしは当然の事なり。」とし、白石島、北木島についての伝説とともに真鍋島と源平合戦との関わりについて紹介している。
 これによれば、「備中府志に云、當(当)城主真鍋四郎祐久、一谷平家籠城の砌り、平家に随遂、殆軍功有。弟眞鍋五郎祐光、生田の森の先陣、武蔵國の住人私ノ黨(党)に河原太郎高直、二郎森直を討取畢、事跡源平盛衰記に載たり云々。」と『備中府志』に記載あることを紹介し、さらに「當(当)時眞鍋島を根拠地として、四隣を併有せし眞鍋氏が平家の爲(為)に力を盡(尽)たるは疑ふべき餘(余)地なし。當(当)島の奮記によれば、初め藤大納言信成の子不節中太夫非違、故ありて當(当)島に配流せられ、北木島、飛島、六島等をも併有し、眞鍋城を築きて居り、眞鍋城を築いて眞鍋氏と稱(称)すと。祐久は其子孫なるべきか。されば本島が當(当)時戦禍を蒙りしこと、想像に餘(余)りありと云(言)うべし。」とある。
 
すなわち、真鍋氏の先祖藤原大納言信成の子不節中太夫が、真鍋島に流されて付近の北木島、飛島、六島等を併有し、その子孫の眞鍋四郎祐久の源平合戦での軍功のあったことは平家勢力の関係、真鍋島の内海における海上根拠地としての位置から考えて、十分に推察することができると記している。
 これら源平合戦を実証するものとして天神端にある石塁は、源平水島合戦の趾として伝えられており、また、岡山県指定の重要文化財である石造宝塔「まるどうさま」は、伝承によれば「源平合戦に敗れた平家の霊を鎮めるために建立された」
といわれ、『小田郡誌』も、「平家一類の墳墓にして、源平合戦の一遺蹟なるべし」としている。
 
この瀬戸内海が主戦場となった源平合戦では、栄華を極めた平家一門も、水島の戦いには勝利するものの、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでは敗戦を続け、最後には西海の藻屑となって滅び去ってしまう。
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。・・・」と『平家物語』にある人世無常の哀感は、決して平家一門だけのものではない。これに殉じた各地の将や兵、そして水軍は、“源氏による平家の落人狩り”の名の下に、この後も辛酸を舐めながら生きていくのである。

 
   
                      

3. 「藤原頼久一族来島」の伝承
 その昔、“大化の改新”を果たせし中臣(藤原)鎌足以来、藤原氏はこの日(ひ)の本において皇統に次ぐ名門となり、その後裔、藤原道長は栄耀栄華(えいようえいが)を極め、「この世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」と詠い、史上最高の権力を握った心境を露骨なまでに表している。
 しかし、藤原氏の摂関政治は、白河上皇の院政により、その権力は奪われることとなる。そして、皮肉にも院政によって力をつけた武士が台頭し、やがて保元、平治の乱を経て、平清盛が権勢を奮(ふる)い、平時忠にして「平家にあらずんば、人にあらず」とまでいわしめている。
 こうして武士による政治が始まると、名門藤原氏は政治の表舞台からは消えることになるが、公家社会の中で脈々と生き続け、その血脈は各地にも分散する。
  真鍋島の伝承によると、この栄華を極めた平家一門が瀬戸内海の藻屑(もくず)となって消えた後、
「文治二(1186)年、藤原頼久一族、郎党とともに来島。古城山に取手柵を構え、見張所を置き、社攸(しゃゆう)城を築き、内海を平定す。(『真鍋島新聞』久一智生氏寄稿)」とあり、これより真鍋水軍隆盛の歴史が始まるのである。全盛期には、その領土は塩飽、笠岡諸島はもとより、北は備後蓑島、南は讃岐国の一部、東は備前長島、西は伊予の伊吹島に及んだといわれる。
 
古文書、その他文献の記述には、この「頼久来島」の件(くだり)は見受けられないが、伝承では「藤原頼久」の名とともに“来島の年代”、そして、来島後の“真鍋島盆踊り見分”までが具体的に残されている。
 この年代に、真鍋氏の祖である藤原氏が来島したものであれば、平家滅亡後となり、平家との盟友関係はなく、鎌倉幕府の成立以前でもあることから、朝廷勢力による権力奪還であったか、あるいは、逆に源氏勢力の側であったかも知れない。源氏による平家の落人狩りの厳しき中にあって、平家に味方した真鍋氏が、これより後に水軍として隆盛を極められるであろうか。ここは、やはり平家滅亡後に源氏勢力側であったであろう藤原頼久の出現こそが至極、現実味を帯びてくるのである。
 本来、伝承では真鍋氏の歴史は、「頼久来島」から始まっているにも関わらず、多くの史家が、一ノ谷の合戦に登場する「まなべ四郎・五郎兄弟」の「備中国住人」を“真鍋島の住人”と解釈していることから、歴史への矛盾を生じさせてしまっている。
 確かに真鍋島始め周辺の島々には、平家の落人伝説も数多く残されていることから、この頼久来島とともに来島年代には、相容れない問題もあることは事実であるが、
平家落人伝説の象徴として現存する石造宝塔「まるどうさま」は、頼久来島以前に立てられた平家一門の、また平家に殉じた人々、あるいは真鍋島から水夫として参戦した名も無き者たちの供養塔であろう。
 
そして真鍋島には、「まなべ四郎、五郎兄弟」についての伝承は残されていないが、讃岐地方には、信憑性に疑義を差し挟む余地のない整然とした伝承が残されており、また、四国地方における現在の真鍋姓の広がりを考えた場合、「まなべ四郎・五郎兄弟」を「讃岐国住人」としている『源平盛衰記』こそが、歴史の真実であるのかも知れない。

4. 尊氏入京を助けし真鍋水軍と「貞友伝説」
 
源頼朝の死後、北条氏による執権政治は長く続くかに見えたが、元寇を機に御家人の心は幕府から離れ、また、承久の乱以後の皇位継承問題は幕府瓦解を早めることとなり、大覚寺統の後醍醐天皇が発した倒幕の綸旨により、鎌倉幕府はあっけなく滅亡した。
 しかし、建武の新政を掲げ朝廷の復権をめざす後醍醐天皇と武家政権の継続を狙う足利尊氏は、たちまち対立。この対立は全国的な動乱となり、一時は入京を果たした尊氏も、京を負われ九州へと敗走したが、持明院統の光厳上皇の院宣を受け、再起を期して九州博多を発ち、備後国鞆津を経て、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる水軍と合流して海路を東進した。
 
『小田郡誌(上巻)』には、「先に九州に奔りたる足利尊氏は、多々良濱(浜)の一戦に大勝して、再び勢力を得、弟直義等と大挙東上の途に就きたり。五月五日備後鞆津に着し、直義の軍は此地に上陸、同十日同地を出發(発)して陸路を、尊氏は海路を東進し、同十五日直義の先鋒は高梁河(川)に、後衛は本郡三谷村に到着し、総(総)勢三十萬(万)所々に篝火を焼く。」と本郡(小田郡)において“湊川の戦い”の前哨戦が行われたことが記されている。
 そして、播磨国湊川において決戦を挑むことになる。
この建武三・延元元(1336)年の「湊川の戦い」に、勢力を蓄えつつあった真鍋水軍も、足利尊氏に加勢し、参戦するのである。
 真鍋水軍隆盛の伝承の一つとして、「鎌倉時代後期、領主真鍋貞満、貞友兄弟、九州敗走の足利尊氏へ助勢、尊氏入京を果せし。京室町に足利幕府成立の後、真鍋兄弟の兄貞満は中央にて活躍せしも、弟貞友は足利一族と折り合い悪く、また恩賞への不満募り、京の町並一望しつつ『この狭き処で我が一生を終えたくはない。我故郷には大海原在り。尊氏、陸の覇者なれば、我、海の覇者ならん。』と真鍋島へ帰省せし、真鍋水軍を率い、内海の島々手中に治め、八幡船(ばはんせん)を仕立て『南無八幡大菩薩』の旗翳(かざ)し、高麗(朝鮮)及び明(中国)の沿岸荒らせし。」と貞友の活躍が「貞友伝説」として残されている。
 あくまでも「伝説」であるが、瀬戸内海のあらゆる水軍が湊川の戦いで尊氏に助勢し、尊氏の入京を助けたことは史実であり、真鍋水軍もこれに加わったであろうことは想像に難くない。
 
また、この「伝説」の八幡船を繰り出す件(くだり)は、塩飽諸島の多くの島々でも語り継がれてきている。この塩飽の島々をまとめ上げて、室町幕府に反旗を翻したのが真鍋水軍であったのではあるまいか。この後、幕府は高麗使よりの要請を受け、義満の時代に倭寇の取り締まりのための「倭寇禁止令」を出すに及んでいる。
 こうして、真鍋水軍興亡の歴史は、“自由の民”として、また“海の領主”として“海の領主”として、江戸幕藩体制の成立期まで続いていくのである。
  貞友の存在を証すものとしては、真鍋島岩坪集落の墓地の一角に、「右衛門(えもん)さん」と呼ばれ、現在は笠岡市指定の文化財となっている“五輪塔群”がある。この五輪塔群は真鍋氏一族の墳墓として散らばって存在していたものを、一箇所に集めて現在の位置に移したものであるが、この中には収集する以前から「右衛門(えもん)さん」と呼ばれる貞友の墳墓が存在していたといわれ、
『備中眞鍋島の史料(第一巻)』にも「真鍋殿様むかしの御墓御座候」とあり、真鍋氏の墓標の存在が記されている。
 また、岩坪集落の中腹にある庵家(阿弥陀堂)は、伝承では「貞友が母の菩提を弔うために建てた」といわれており、『備中眞鍋島の史料(第一巻)』の「覚」には「御代々之御墓数多御座候則御墓之近所ニ阿弥陀堂御座候真鍋殿御本尊三尊之阿弥陀行基之御作と申傳候」とあって、この庵家(阿弥陀堂)の阿弥陀三尊が真鍋氏の本尊であることが記されている。
 なお、この貞友の出現年代については、異説があり、『備中国眞鍋島の史料』には、享徳二(1453)年に貞友によって書かれたとされる『真鍋先祖継圖』が載せられており、貞友出現年代に一世紀もの隔たりを見せている。
 しかし、「貞友伝説」は、真鍋水軍隆盛の象徴として残され、尊氏を助け、右衛門大夫への任官、真鍋帰島の後は、海の覇者として領地領海を広げ、八幡船を繰り出し、遠く日本海まで活躍の場を拡大したが故に、貞友をして「真鍋氏中興の祖」と称されていると、いかにも信憑性に満ちている。

  第1章 真鍋島の概要    第3章 真鍋氏の真実    第4章 真鍋島の信仰    第5章 真鍋島の習俗

第 3 節  近 世 の 歴 史

1. もう一方の「貞友」出現の証(あかし)『真鍋先祖継圖(けいず)』 
 真鍋島の伝承に残りし、「真鍋氏中興の祖」と称される真鍋水軍の英傑「真鍋貞友」は、いつ如何なる時代に活躍したるものか。この貞友によって花押が記された『真鍋先祖継圖』が残されているという。
 
『備中眞鍋島の史料(第一巻)』は、
貞友が書いたとされる『真鍋先祖継圖』の内容を掲載しており、この真鍋貞友(藤原教勝)の花押を記した年代を享徳二(1453)年と伝えている。
 
そして、『小田郡誌(下巻)』には、「然るに當(当)地眞鍋氏の記録傳(伝)説等によれば、白河院五代の孫、大納言藤原信成の子、不節中太夫非違なるもの、故ありて當島に配流仰せ付られ、北木島、飛島、六島等を領し、字城山に城砦を築きて居り眞鍋氏と稱(称)す。後享徳の頃は、飛島、六島を一族成繩(縄)に分ち與(与)へ、本島及び北木島を眞鍋貞友領す。」とあって、さらに「要するに絶海の孤島と云ふべき本島は、一般行政の圏外に獨(独)立して、久しく眞鍋氏の領地たりしことは、疑ふ可らざるが如し。」と貞友が、中世に来島した藤原氏の末裔であることに加え、その領地については、中央政権から独立し、長期に亘って真鍋氏支配であったことの妥当性を記している。

  現在に残る
『真鍋先祖継圖』には、

 「藤大納言信成白河院ヨリ五代此氏女鳥羽寳蔵在之

 由聞飛居別當嶋被流當嶋其子七人在之六人死去

 乙子七郎別當不節中大夫トモ申 非違

 其子三人

 嫡子日方間大夫馬資

 二男福原新大夫

 三男サウツノ七郎・・・」

 「・・・干嶋 室嶋 五郎成繩(縄)領勝分

     柴ノ嶋 真鍋 貞友教勝分」

 「享徳貮(二)年癸酉九月中旬 真鍋貞友(花押)」

 とあり、この貞友が白河院より五代の大納言藤原信成の末孫であることを証しているものである。

 この『真鍋先祖継圖』には、「日方間(ひかたま)」、「福原(ふくら)」、「沢津(そうず)」という真鍋島に現存する地名が、人名として記されているが、これらの地名も藤原一族との関わりから付いたものか。
 
ここで注目しなければならないのは、真鍋氏の領地領海である。「干嶋(飛島)室嶋(六島)、五郎成繩(縄)領勝分。柴ノ嶋(北木島)、真鍋、貞友教勝分」とあり、「全盛期には、その領土は塩飽、笠岡諸島はもとより、北は備後蓑島、南は讃岐国の一部、東は備前長島、西は伊予の伊吹島に及んだ」といわれる真鍋氏の封土は、この時代に減少していることになる。
 
この貞友の時代に領地領海が減少し、この四島だけとなったのであれば、「内海の島々手中に治め、領地領海を広げ、『中興の祖』と称された」との「貞友伝説」と矛盾する。
 
また、『真鍋先祖継圖』には、「享徳貮(二)年癸酉九月中旬」の記載年月があって、これが貞友によって書かれたものであれば、集落に残る「貞友伝説」との貞友出現年代にも大きな開きを見せることになる。
 そして、何より『備中眞鍋島の史料』には「右衛門太夫系圖(図)傳右衛門方所持致候」とあり、『真鍋先祖継圖』が、何故か、庄屋傳衛門家の所有となっているのである。
 なお、この『真鍋先祖継圖』には、「柴ノ嶋」との記載があり、現在の「北木島」のことであるとされているが、「柴」の字を上下に分離すると「北」と「木」なり、北木の島名の由来としては、なかなか興味深い。
       
                                                             『 備中眞鍋島の史料』より
    

2. 「真鍋水軍侵入」への警戒を促す信長の書状 
 応仁の乱を経て、群雄割拠は続き、織田信長が天下布武を掲げ、天下統一を推し進めた戦国末期、この時代においても、ここ瀬戸内海における真鍋水軍隆盛の歴史は続いている。
 
信長は、天下に号令すべく、天正四(1576)年二月に安土城を築き入城。しかし、四月、本願寺顕如、信長に追放されていた足利義昭に通じ、摂津石山城に拠(こも)り信長と戦火を開く。
 『笠岡市史(資料編中巻)』には、
織田信長から荒木摂津守(村重)に宛てた書状が掲載され、その内容は「沼田・田内・真鍋・海上せい入候由可然候、油断候てハ曲事之趣切々申遣候、誠遠路日々注進無油断之段感悦不斜候、尚見参之時可申聞候也、謹言(天正四(1576)年六月一八日)」とあり、石山本願寺攻略にあたり、真鍋水軍など毛利方の侵入への油断を戒める内容となっている。
 この
信長の石山本願寺攻略の時代にも、「真鍋水軍」の存在が世に聞こえ、天下の覇権を狙う「信長」までもが、警戒しうるほどの存在であったことが窺える。
 
『小田郡誌(上巻)』には、「弘治元(一五五五)年毛利元就、陶全羌と厳島に於て戦ふ。此の役始まるや、兩(両)氏より、辭(辞)を卑うして、能島、来島兩村上氏に應(応)援を求む。兩村上家一族協議の末、毛利氏援助の事を決せり。・・・爾後、村上氏は毛利氏に属し、小早川隆景麾下に於ける、海軍の将として東西に活動せり」として、村上水軍が厳島の戦いによって、毛利氏へ加勢し、これ以降、毛利氏に属したことが記されている。
 
また、「笠岡地方に於ける村上氏の領地の決定せしも亦、此頃の事なり。」として、笠岡城主としての村上氏の配置についても言及している。
 この村上氏の笠岡地方への進出によって、自由の民として海に覇権を求めた真鍋水軍も、遂には毛利氏に属さざるを得なかったものと考えられる。
 
そして、信長が石山本願寺と戦火を開いたことで、能島、来島、因島の村上氏などの水軍も毛利勢に加わり、石山本願寺を助けて、信長の水軍と摂津の木津川口で戦い、織田水軍を完全に覆滅せしめ、毛利方が天正四(1576)年七月には、村上氏らとともに大坂湾頭の織田勢の包囲を破って、石山寺に兵糧を入れることに成功している。
 『小田郡誌(上巻)』は、「大阪川口の戦」の項で、「村上影廣迫ひ懸け、鐵(鉄)砲にて打たるるを物ともせず、一番に敵船に乗り移る。郎黨(党)これにつづきて飛び乗り、影廣は鎗にて股を突かれしも、ひるまずして其敵を突き伏せ首をとる。かく奮戦して遂に其大船を捕獲せり。味方の諸
將(将)も皆それぞれ力戦せしにより、大安宅船二艘を奪ひ取り、其外小舟などは數(数)知らず破壊せり。」と笠岡城主村上影廣の活躍を記しており、当然、毛利方であった真鍋水軍も、これに参戦し、功成り名を遂げたのではあるまいか。
 しかし、この後、天正六(1578)年には、織田方である九鬼嘉隆の戦艦七艘と毛利方の西国船六百余艘が木津川口において舟軍(ふないくさ)となり、六艘の大船に積んだ大鉄炮によって毛利方の水軍は完膚なきまでの敗北を喫することになる。
 この戦艦について『信長公記』は、「志摩の九鬼右馬允仰せつけられ、大船六艘作り立て、並びに、滝川左近(一益)に一艘、是れは白舟に拵へ。
九鬼右馬允、七艘の大船に小船を相添へ、山の如く飾り立て、敵舟を間近く寄せ付け、愛し候ふ様に持(もて)なし、大鉄炮一度に放ち懸け、敵舟余多(あまた)打ち崩し候の間、其の後は、中々寄付行(てだて)に及ばず、難なく寅七月一七日、堺の津へ着岸候ひしなり。見物、耳目を驚かし候ひしなり。」と伝えている。
 時代の寵児たる信長が造らせし戦艦は、僅か六艘によって、六百余艘にも及ぶ毛利水軍が壊滅に至るほど、時代を先取りしたもので、「装甲船」ともいうべき船であった
毛利方であった真鍋水軍も、この船の餌食となり、犠牲者を出すことになったものと考えられる。
 
この『信長公記(巻九)』には、「まなべ七五三兵衛(しめべえ)」なる人物が登場するが、真鍋水軍とは敵対する織田方の和泉水軍の将で、奇しくも「真鍋貞友」とも称し、この木津川口海戦での毛利水軍との戦いにより戦死している。 
 なお、織田信長から荒木摂津守(村重)に宛てた書状に、「真鍋」の名とともに記された「沼田」及び「田内」については、真鍋水軍同様その成り立ちは古く、村上水軍隆盛の以前にはそれぞれ備後、伊予などの制海権を掌握していた名族であって、戦国期になり毛利氏に加勢したようである。

(沼田氏)
 古代末期、因島を含む中部瀬戸内海は水軍力をもつ伊予の河野氏や安芸の沼田氏が勢力をふるっていた。室町時代になると伊予から北上した村上一族が因島を拠点として付近の海上権を手中におさめた。村上水軍以外に日本各地に相模伊豆水軍、伊勢水軍、九鬼水軍、熊野水軍、塩飽水軍、河野水軍、松浦党がある。
引用資料 因島水軍城
   
http://homepage1.nifty.com/ym/s/340/c1/c-murakami.htm

(田内氏)
 田内氏は(たうち・たのうち・でんない、傳内)と呼ばれ、阿波・讃岐・土佐・伊予での名族で、古くは第八代孝元天皇より出て武内宿禰の子、蘇我石川宿禰の子孫。蘇我氏の川堀(大和高市郡田口村より起こり)推古帝田口臣賜い田口姓。子孫、阿波介・讃岐状掾成行(名東大夫)阿波に赴任す、其の子田口阿波太郎成秀(公文所)-田口阿波民部大輔成能(重能・成良)-田内左衛門尉教能(則能・成直)-平三郎成継・・・と続く。土佐の香宗我部の家臣、田内與三郎・次郎兵衛等は教能の子孫。長曾我部氏に敗れる。三河の田内氏も教能の末裔、後の牧野氏。
 通説では壇ノ浦合戦で戦いの途中で平氏を裏切り三百艘をもって源氏方についたとされます。
 田内氏を名乗る祖としては、阿波田口氏族・清和源氏・桓武平氏・菅原氏族等が存在する。

  http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100773.html

(村上景廣)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
八郎左衛門尉(通称)。
  天文23年(1554年)頃 – 寛永4年(1627年)日本の戦国時代武将能島村上氏一族。隆重の嫡子、武吉の従兄弟。備中笠岡城主。
  村上水軍の能島村上氏の一族として活躍した武将。父隆重と共に瀬戸内の要衝笠岡城の城主として活動した。第一次木津川口の戦いにも参戦したことが当時の注進状から知られている。
  文禄の役では海上戦に不慣れな藤堂高虎隊に属して、これを補佐している。 関ヶ原の戦いでは、西軍に属した毛利氏の下、乃美景継九鬼嘉隆らと共に 尾張国海上を封鎖し、東軍に属した水軍を散々に打ち破って首級107を挙げたという。
 しかし、関ヶ原本戦で西軍が敗れた為に毛利氏は減封となり、彼の去就が注目されたが、 関ヶ原合戦の功によって
豊前国39万5000石に加増された細川忠興に招かれて毛利氏を離れ、1万石を賜った。 以後、細川家臣として300余人を率いて大坂の両陣にも参加している。 1627年に死去し、跡を嫡子・景則が継いだ。


3、「眞鍋右衛門之大夫」の出現と官名呼称の謎
 『備中眞鍋島の史料(第一巻)』には、貞友が書いたとされる『真鍋先祖継圖』とともに、後に真鍋島の庄屋であった傳右衛門によって記された「覚」、「口上覚」が残されている。
 この「口上覚」には、「真鍋右衛門之大夫申御侍八拾年程以前迄真鍋嶋に御住宅被遊候・・・」とあり、「真鍋右衛門之大夫」と称す侍が、庄屋傳右衛門によって記された貞享二(1685)年から八十年ほど以前まで存在していたことを伝えている。
 
集落では、「右衛門大夫(えもんさん)」とは貞友をいうが、この「真鍋右衛門之大夫」とは誰を指すのか。『真鍋先祖継圖』には、貞友の名があるものの、どういう訳か、官名を記してはいない。この官位は、貞友によって授かったものと伝承されてきているが・・・。
 
この「口上覚」が、庄屋傳右衛門によって記された年代は、貞享二(1685)年となっており、「八〇年程以前まで」を計算すると、「真鍋右衛門之大夫」は、江戸幕府成立以降の慶長一〇(1605)年頃まで存在していたことになる。
 このことからも、ここに記された「真鍋右衛門之大夫申御侍」とは、貞友ではないことは明らかで、貞友の後裔によって、この官名が称されていることが解る。
 一般に、官名については、先祖が補任された官位を子孫が継承するなど、朝廷の関知しない、武士自ら官名を名乗る自官という慣習が定着していたといわれている。
 真鍋氏においても、貞友の任官よりその後裔が代々引き継ぎ、この官名「右衛門大夫」を称してきたものであろう。
 
『備中眞鍋島の史料(第一巻)』にも、「先年之事ハ不存候真鍋殿八代めの右(衛)門大夫殿代まて(で)ハ御付置被成候へ共其後慶長三年ニ基教殿代ニ被上召候」と庄屋千によって書かれていることから、貞友以降の「八代」の真鍋城主が「右衛門大夫」を称したものと考えられる。
 
そして、「右衛門大夫」の官名が、江戸幕府成立の直前まで引き継がれてきたということは、自称といえども、この官名を堂々と名乗るだけの権勢を保持し得ていたということになるのではなかろうか。
 なお、「覚」には、「真鍋嶋之儀往古者備中之國寄嶋と申候得共中興真鍋氏當嶋ニ御住居被遊候ニ付其時代より真鍋嶋と申傳則御代々之御墓数多く御座候則御墓之近所ニ阿弥陀堂御座候真鍋殿御本尊三之阿弥陀行基之御作と申傳候」とあり、昔は寄島と呼ばれ、真鍋氏の来島によって真鍋島と称するようになったと命名の由来とともに、代々の墓近くの庵家(阿弥陀堂)にある真鍋殿御本尊の阿弥陀三尊は奈良時代の高僧行基の作と伝えられてきたと記されている。
 しかし
、「真鍋島」の命名については、既に吉備国の時代から「眞南辺」などの名で存在し、頼久来島以前の西行来島時には、「まなべ」の名で『山家集』にも歌が詠まれているのである。
 このことからも、藤原一族は、既に「真鍋」と称されていた島にやって来て、その島名を姓としたものであろうと考える。


4. 真鍋水軍始め各地の水軍の衰退と「海賊禁令」

 遠く藤原純友の乱より「海賊」と中央政権からも畏れられ、時に鎮圧の対象ともなり、源平合戦以降、領地領海を守るため幾多の戦いに参戦してきた各地の水軍も、近世初期になると瀬戸内海は、毛利・小早川・長宋我部・織田など諸大名勢力が角逐する戦場となって、大名諸家に分裂を余儀なくされ駆使されてきた。
 
やがて、戦国時代が終わり、織豊政権が成立すると、天下は安定し、数百年にわたって瀬戸内海を跳梁した水軍も衰退することとなる。
 藤原氏の来島より、瀬戸内海に覇を唱えてきた真鍋水軍においても“対岸の火事”ではなかった。“自由の民”として海の領主を自認してきた真鍋氏は、戦国のこの瀬戸内海で西は毛利氏に、東は信長の勢いに押され、分裂分散させられ、衰退を余儀なくされてきた。
 
こうして真鍋貞友が描いた海の覇者たる“制海の夢”は打ち砕かれ、塩飽の島々への覇権は失墜し、西からの権力者毛利氏に着くことで、生き延びざるを得なかったのであろう。
 
そして、信長の後継、秀吉によって、遂に下克上の戦国の世に終止符が打たれると、天下は一応の安寧を保ち、水軍などの利用価値も低下していく中で、天正一六(1588)年には「海賊禁令」が出されている。
 
この「海賊禁令」によって、古からの関銭徴収などの海上特権を失った真鍋水軍始め各地の水軍は、衰退の一途を辿ることになる。
 
「海賊禁令」は、厳しきものであり、一時代を築き上げた瀬戸内海水軍の盟主村上氏にあっても、この禁令が命取りとなってしまうのである。

海賊禁令
 天正十六年(1588)四月、後陽成天皇、聚楽第に行幸。七月六日秀吉、刀狩の令。七月八日秀吉、海賊禁止令を発す。従来のように海上を航行する船舶に対し、ほしいままに関銭を徴収する水軍の在り方は禁止される事となった。
『小早川家文書』(五〇二)「豊臣秀吉法度」による海賊禁令、次の通り。 

  定
一、諸国於海上賊船之儀、堅被成御停止之処、今度備後伊予両国之間いつきしまにて盗船仕之族有之由、被聞食、曲事ニ思食事
一、国々浦々船頭猟師いつれも舟つかひ候もの、其所之地頭代官として、速相改、向後聊以海賊仕ましき由、誓紙申付、連判をさせ、其国主取あつめ、可上申事
一、自今以後、給人領主致由(油)断、海賊之輩於有之者、被加御成敗、曲事之在所、知行以下末代可被召上事
 右条々、堅可申付、若違背之族有之者、忽可被処罪科者也
  天正十六年七月八日  (秀吉朱印)

 一条に、海賊を堅く禁止してあるのに、この度、厳島で盗船する輩があるとのこと、けしからぬことだ、とあるので、海賊禁止のお触れは、これ以前にも出されているものと思われる。

 別冊歴史読本『海の戦国史』「村上武吉」(森本繁)二十六頁に、これに違反した能島村上水軍・村上武吉の末路が紹介されている。
天正十六年七月八日の海賊禁止令によって海上特権を奪われた(能島村上水軍の村上)武吉父子が、其の後も瀬戸内の海関で関銭を徴収したという理由で譴責を受け、厳罰に処せられる羽目に陥った。さいわいこのときは、隆景と秀吉の重臣戸田勝隆のとりなしで切腹だけは免れたが其の後は朝鮮出兵を目論む秀吉の目障りになるからと、瀬戸内海での居住が許されず小早川隆景や毛利輝元の庇護下で、筑前や長門の大津郡内に居住しなければならなか った。武吉父子が長門の大津郡から安芸の竹原へ移住するのは秀吉がなくなってからあとのことである。

 以上にある能島村上武吉が秀吉から受けた譴責とは、次の様なものであった。

 『小早川家文書』(二八六)「豊臣秀吉朱印状」、

能島事、此中海賊仕之由、被聞召候、言語道断曲事、無是非次第候間、成敗之儀、自此方雖可被仰付候、其方持分候間、急度可被申付候、但申分有之者、村上掃部早々大坂へ罷上、可申上候、為其方成敗不成候者、被遣御人数可被仰付候也、
  九月八日 (秀吉朱印)
小早川左衛門佐とのへ

 村上掃部は村上武吉。能島村上武吉が海賊行為を働いたと聞いた秀吉は、成敗を小早川家に申付けた。申し分あれば、村上武吉自身が早々に大坂に来て申すように。小早川家で成敗するよう、しないなら秀吉が人数を差し向けるであろう、という。成敗は処刑であり、武士として切腹することになる。海賊禁止の定めによると、小早川家も知行を召上げることになる。小早川家にとっても一大事である。
 このため、旧来の水軍は其の在り方を改めなければ存在できない事になった。淡路の菅水軍も天下人秀吉の配下の水軍組織の一員として脱皮する他ない。海上権益が失われれば陸上に所領をもつ他ない。
 
出典:『淡路・菅水軍の歴史』
http://homepage2.nifty.com/H-Suga/kan7.html

5. 真鍋水軍の終焉(しゅうえん)と「真鍋氏終焉伝説」
 栄枯盛衰は世の常。『平家物語』の冒頭にも、現世の「諸行無常」と「盛者必衰」の理(ことわり)が説かれている。
 
この栄華を極めた平家一門が滅び去った平安末期に、藤原頼久来島によって興された真鍋氏、そして、ここ瀬戸内海において隆盛を極めた真鍋水軍も、遂に、その歴史に幕を閉じることになる。
 栄枯盛衰は世の常といえども、何故、真鍋氏は終焉を迎えることになったのか。『備中眞鍋島の史料(第一巻)』には、「先年之事ハ不存候真鍋殿八代めの右(衛)門大夫殿代まて(で)ハ御付置被成候へ共其後慶長三年ニ基教殿代ニ被上召候」とあり、慶長三(1598)年に所領は召し上げられたとして、真鍋氏の終焉を伝えている。
 

真鍋水軍が歴史から消え去っても、隣接する塩飽水軍はその後も存続し続けている。伝承では、真鍋水軍と塩飽水軍の歴史は、中世の一時期において重なっており、同士あるいは同一の組織であったはずで、地理的見地からもそのことが確認できるであろう。
 真鍋水軍の版図は、「全盛期には、その領土は塩飽、笠岡諸島はもとより、北は備後蓑島、南は讃岐国の一部、東は備前長島、西は伊予の伊吹島に及んだ。」と伝えられており、また、尊氏入京への加勢や倭寇として日本海にまで侵出したとの両水軍の伝承の重複こそが、このことを物語っている。
 しかし、その後、信長による天下布武の時代には、袂を分かち、真鍋水軍は毛利方に付き、塩飽水軍は織田方に付いている。
 海の領主として広範な海域を持つ真鍋氏は、いつしか毛利と信長の二大勢力の狭間に陥り、生き延びるために、毛利氏に付くことを選択せざるを得なかったのであろう。
 真鍋水軍が毛利方に付き、信長軍と敵対していることは、『笠岡市史(資料編中巻)』の信長から荒木摂津守(村重)に宛てた書状によっても確認できる。

 一方、『笠岡市史(第二巻)』の「能島村上の衰退」の項では、「羽柴秀吉の調略のうちでも、村上水軍に対する働きかけは執ようで、天正十年四月、秀吉の備中進出を機に、来島の村上通昌が織田方についた。これを知った毛利方は、能島や因島の水軍にも命じて来島を攻めさせたが、通昌らはすでに織田方についていた塩飽水軍のもとへ逃げた。」とあり、塩飽水軍が織田方に付いていたことが記されている。
 
こうして、塩飽水軍は信長に加勢し、徳川の世になっても、自治が認められるなど、後世「人名(にんみょう)の島」と称されて、明治期を迎えている。
 真鍋水軍終焉の理由は、定かではないが、この辺(あた)りに両水軍の明暗を分けた理由があるのかも知れない。
 信長に敵対した真鍋氏は、毛利氏の備中からの撤退とともに力を失い、そして、慶長の役、あるいは、秀吉の死による影響であったか、真鍋氏の終焉は、この時期に符合するのである。
 なお、真鍋氏終焉に纏わる伝説が残されており、そこには真鍋氏最後の城主として「真鍋藤兵衛」なる人物の名とともに「奥方」と「白蛇」を登場させて、真鍋氏終焉への経緯が語られ、些か謎めいている。
 この藤兵衛の人となりについては、何ら残されていないが、この奥方の出自については、讃岐高松藩とも丸亀藩ともいわれ、どちらにしても藩主の姫君を娶っているのであれば、真鍋氏の当時における権勢の大きさを物語っていることにもなる。
 
伝説は確たる終焉理由を語ってはいないが、この伝説こそが真鍋氏終焉の真実を伝え、そこに謎を解く鍵が秘められているのかも知れない。

 

(真鍋城終焉の哀話)
 真鍋城では、代々、三層の本丸の最上層に白蛇を飼っており、この白蛇に餌をやることは  
城主の妻の勤めであった。 
 最後の真鍋城主の奥方は讃岐高松の松平家の姫君であ ったが、ある日、いつものように 白蛇に餌をやりに行った時、閉じこめられている蛇と我が身を重ねたのか、可哀そうになり、窓を開いてやった。白蛇は窓から抜け出ると、真鍋島の沖あいにある大島に逃げていった。
 
ところが、まもなく、その白蛇は、大島で死んでいるのが見つかった。
 
それからのち真鍋家は不幸が続き、城主夫妻も病没してしまい、ついに真鍋家は城を出て 民間に下り帰農したという。今も大島の頂上には白蛇を祭神とした小社がある。
 
「日本城郭全集一〇岡山県・兵庫県」(大類 伸監修、人物往来社発行)より

 

6.「関ヶ原の戦い」の村上水軍と真鍋氏
 豊臣秀吉の没後、慶長五(1600)年九月、美濃国関ヶ原において、天下分け目の決戦といわれる「関ヶ原の戦い」の幕が切って落とされた。
 
この関ヶ原の戦いは、真鍋島に如何なる影響を与えたか。この時、既に真鍋氏並びに真鍋水軍は、終焉を迎えていたようである。
 
『小田郡誌(上巻)』には、「慶長三年八月豊臣秀吉薨じて後は、諸将の信望は自然に徳川家康に 歸(帰)し、家康亦天下を掌握せんとの野心満々たり、慧眼なる石田三成如何でか見逃すべき、家康を滅さヾ(ざ)れば豊臣の天下危しとして、慶長五年會(会)津の上杉景勝に勧めて、先づ叛旗を揚げしめ、家康東征の留守に、西國(国)諸侯に檄を飛ばして兵を集め、茲に関ヶ原の大戦役を見るに至れり。」と関ヶ原の戦いに至った経緯が記されている。
 
こうして、関ヶ原の戦いの火蓋が切られ、東軍の総大将は徳川家康、対して西軍は石田三成を中心として盟主は毛利輝元であった。この毛利氏が、盟主である以上、瀬戸内海の水軍も当然、参戦を余儀なくされたであろう。
 
『小田郡誌(上巻)』は、「村上景廣等は乃美景繼(継)と共に、水軍の大將(将)として、九鬼嘉隆を語らひ(い)、大小の兵船三十 餘(余)艘を率ゐ(い)て、伊勢尾張の津々浦々を漕ぎめぐり、至る所を侵掠(侵略)して兵糧を奪ひ(い)、之を味方の城々に集む。就中九月九日十日の兩(両)日、尾張國野間内海の戦闘に於ては、景廣の麾下のみにて百十七級の首を獲たり。」と笠岡城主である村上景廣の活躍を記している。
 
この笠岡城主村上景廣が参戦しているからには、真鍋島が無風である訳がない。真鍋水軍は逼塞していても真鍋氏一族が滅亡した訳ではない。水軍ではなくとも、真鍋氏一族はこの戦いに笠岡城主に与して戦ったのではあるまいか。笠岡城主村上景廣とは、姻戚関係にあり、静観は許されない。否、この大戦を失地挽回の好機と捉えたのかも知れない。
 
しかし、国内における史上最大の戦いであった「関ヶ原の戦い」は、西軍小早川秀秋の東軍への内応により、東軍勝利の大勢が決まり、あっけなくも同日夕刻には、徳川家康の完全なる勝利で幕を閉じることになる。
 
真鍋島には、「真鍋氏は関ヶ原の戦いに大敗した」との伝承も残されており、何処でどんな戦いをしたのか不明であるが、この関ヶ原での大敗により、真鍋氏再興の夢は断たれ、「帰農」を余儀なくされたのである。

 7.善兵衛「庄屋役」を命じられる
 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長八(1603)年に征夷大将軍へ任じられ、江戸に幕府を開いく。
 
江戸幕府の成立によって、真鍋氏の所領は徳川の直轄地となり、徳川麾下(きか)の代官小堀氏の支配となっている。
 
『小田郡誌(上巻)』には、「関ヶ原の戦役の後、我國(国)の政権は全く徳川氏の手に歸(帰)し、江戸幕府天下に號(号)令するに至れり。而して関ヶ原役後論功行賞の結果、備中國に於ける舊(旧)毛利氏関係の領地は悉く没収せられて幕府の直轄地となれり。是に於て慶長五年冬代官小堀新助来りて、上房郡松山城に入り、備中一國の政務を司る。」とあり、関ヶ原の戦い後の勢力図は大きく変わり、毛利氏撤退の後の備中国は幕府直轄地となって、笠岡諸島、延いては真鍋島も大きく体制を変えられることとなる。
 そして、『小田郡誌(下巻)』の真鍋島村の章に「慶長五年貞友の後裔式部子善兵衛の時、幕府の代官小堀新助に没収せられて、幕府直轄地となり、善兵衛は改めて庄屋役を命ぜらる。」と記されている。

 すなわち、慶長五(1600)年関ヶ原の戦いの後に、徳川氏支配のもとで式部の一子たる善兵衛が真鍋島の庄屋を命ぜられて、これ以降、庄屋制度による体制が敷かれることで村政が始まるのである。
 なお、
この式部、善兵衛とも経歴は不明であるが、『小田郡誌』における「貞友の後裔」という記載については、疑問が残るところである。
 
後に、この善兵衛の後裔、傳右衛門によって記された古文書「口上覚」には、「真鍋右衛門之大夫申御侍八拾年程以前迄真鍋嶋に御住宅被遊候御子七人内六人ハ御息女壱人ハ御子息ニ而(て)藤兵衛様と申候七拾年程以前迄真鍋嶋之岩坪と申所ニ御親父様之御屋敷跡ニ居住被成候」とあり、この善兵衛が庄屋を仰せつかった時代には、まだ貞友の系譜は「真鍋右衛門之大夫」、「真鍋藤兵衛」と歴然として繋がっているのである。その上、「真鍋嶋之岩坪と申所」とあり、貞友の後裔は、庄屋善兵衛の居住する地ではなく、岩坪集落において存在していたからである。

        

8.真鍋藤兵衛の出現と離島
 真鍋氏終焉伝説によれば、真鍋氏最後の城主として「真鍋藤兵衛」の名とともに、謎めいた終焉への経緯が語られているが、その事跡については、何ら残されていない。
 
『備中眞鍋島の史料(第一巻)』の古文書「口上覚」には、「真鍋右衛門之大夫申御侍八拾年程以前迄真鍋嶋に御住宅被遊候御子七人内六人ハ御息女壱人ハ御子息ニ而(て)藤兵衛様と申候七拾年程以前迄真鍋嶋之岩坪と申所ニ御親父様之御屋敷跡ニ居住被成候」とあり
、真鍋右衛門之大夫という侍の一人息子の藤兵衛が七十年ほど前まで真鍋島の岩坪に住んでいたと記しており、伝説の最後の城主「藤兵衛」が実在したことが窺える。
 この「口上覚」は、
貞享二(1685)年に庄屋傳右衛門によって書かれていることから、「藤兵衛」なる最後の城主は、江戸幕府成立以降の慶長一九(1615)年ほどまで、真鍋島に存在していたことになる。
 
また、「口上覚」には「村上八郎左衛門様尋テ肥後江御下り被成彼之八郎左衛門様ニ被養テ御座候由承申候」とあり、藤兵衛が村上八郎左衛門を訪ねて肥後へ下ったと記されている。
 『笠岡市史(第一巻)』にも「真鍋氏のその後」という項目の文頭には、「真鍋右衛門大夫の娘の一人が笠岡領主村上八郎左衛門の妻となっており、笠岡とのかかわりを持っていた。」とあって、「村上八郎左衛門」との関係について記されている。この八郎左衛門とは、能島村上水軍の流れを汲む戦国期の笠岡城主であった「村上景廣」のことである。
 
『備中眞鍋島の史料(第一巻)』の古文書「真鍋殿ゆらい覚書」には、「御きやうたい(兄弟)四郎左衛門殿と御両人但シ四郎左衛門殿ハ御しやてい(舎弟)壱人ハあミすへノ真鍋右門(右衛門)太夫殿其御子七人内六人ハむすめ歹(残)壱人ハ男子名ハ藤兵衛殿と申御親父御遠行之後ハ百性(姓)を被成御座候へ共しんたいなり不申候ゆへこくら之殿様ニあねむこニ村上八郎左衛門殿御ほうこ(奉公)之由それヲ便として尋ゆき被成候」とあり、藤兵衛は、百姓をしていたが、(進退)立ち行かず、小倉の殿様に姉婿の村上八郎左衛門が奉公していたことから、それを頼りに訪ねて行ったと離島までの経緯が書かれている。
 
『小田郡誌(上巻)』にも「村上景廣は小早川家直属の臣下なりしにより、関ヶ原役後最初に 首せられし一人なり。・・・之によりて村上景廣毛利家を解雇せられ、流浪の途に上りしを知るべし、而して毛利輝元の所領決定せしは、慶長五年十月一日なれば、・・・景廣解雇の時期は其の直前、即ち同年九月中旬以後なるべし。廣島を退轉(転)したる村上景廣は、九州に至り豊前奉行の許に召抱へられ、同奉行の旨を受けて、毛利家を離れたる浪人を呼び集めたり。・・・豊前奉行とは不明なるが、・・・細川越中守忠興に給はる迄の、過渡期に設けられし臨時役人にはあらざるか。忠興の子忠利は、後に小倉より肥後熊本に移封せらる。村上景廣の熊本候に仕へたりとの説あるは信ずべきが如し。」とあることから、村上景廣の熊本細川家への伺候は、この『小田郡誌』編成の時期には確たる証拠がなかったものか。古文書「真鍋殿ゆらい覚書」は、このこと明確に記していることにもなる。
 こう
して、最後の真鍋城主といわれた藤兵衛は、帰農したものの立ち行かず、細川氏が小倉城主であった時代、姉婿であり笠岡城主であった村上景廣を頼んで随遂したのである。
 
「真鍋殿ゆらい覚書」は、続けて「其後風聞ニ承候へばせんたく人置被成候が娘壱人か弐人か御座候由ニ承候其以後ハ如何様も不承候但シ右むすめ六人内壱人ハまなべニ御座候但善衛門と申人内方壱人ハ備中中大嶋中村ノ与左衛門と申人内方ニて弐人ハさんしう(讃州)にを(仁尾)村ニ伊右衛門五郎右衛門内方ニ壱人ハ早々しニ被申候由壱人ハ村上八郎左衛門様御内方之由此の八郎左衛門殿ハ備中笠岡ニて御座候由承候」とあり、藤兵衛のその後の風聞と藤兵衛の姉妹六名の嫁ぎ先その他所在を記し、それ以後のことは不承知であるとして、真鍋氏最後の城主「藤兵衛」の足取りは消えている。


 

9、江戸期の真鍋島と庄屋制度
 
江戸幕府の成立によって、長く続いた戦乱の世は終わり、真鍋島においても一応の平安が保たれることとなった。
 
真鍋氏の所領は徳川の直轄地となり、徳川麾下の代官小堀氏の支配となっている。そして、元和三(1617)年には松山の池田氏の領となり、同五年福山の水野氏の封土となったが、元禄十一(1698)年再び幕府直轄領となり、笠岡代官の治下にあつて明治維新を迎えることになる。
 
徳川幕府支配の下では、庄屋制度により統治が始まり、『小田郡誌(下巻)』の真鍋島村の章に「慶長五年貞友の後裔式部子善兵衛の時、幕府の代官小堀新助に没収せられて、幕府直轄地となり、善兵衛は改めて庄屋役を命ぜらる。畑地拾町壹(壱)反三畝歩、此税金七貫百八文、銀に換算して七拾壹(一)匁八厘づつ、元和三巳年迄上納せしが、同年午年代官山脇九郎左衛門の支配となり、草高三十七石四斗餘(余)を命ぜられ云々とあり。」と記されている。
 
この真鍋島における庄屋は、善兵衛から始まったとされ、この善兵衛の子孫が庄屋役を世襲することになる。
 
そして、真鍋島においては、これまでの中央から独立したあらゆる制度が廃止され、江戸幕府による新たな制度が始まり、租税制度も一変した。この租税は「年貢」といわれ、石高を村全体で集計した「村高」によって村の年貢が決められ、村が一括納入の義務を負う「村請制」であった。
 年貢の納入は、村にとってもっとも重要な仕事であり、年貢は、まず庄屋のもとに納められ、海運を利用し、代官所に送られ、幕府が各地の港に御用運送船を廻送させ、御蔵に運び込んでいたようである。
 
年貢については、米納を原則としていたようであるが、真鍋島においては、稲作は皆無に等しく、「金七貫百八文、銀に換算して七拾壹匁八厘づつ」とあるように、金(銀)納とされたのであろう。
 
真鍋島の庄屋制度をみると、『備中眞鍋島の史料』には、「庄屋」を筆頭に、「与頭」だけであったものが、「御年寄」、「百姓代」、時に「猟師(漁師)総代」が加わり、そして、五人組制度の「五人頭」など体制が整えられていった様子が窺える。

 なお、元禄年間になると真鍋島独特の制度として、「殿付き」という役職が設定されたといわれる。これらの成り立ちは、岩坪集落において藤原氏を祖とする真鍋氏一族の「ドノカブ(殿株)」と称されていた「真鍋七家」を摸倣して作られた役職であり、本浦集落においても有力な一族が選ばれることで、この役職が世襲されてきた。
 こうして、庄屋制度は村政の一切を、一種、民主的な合議制によって諮るしくみに、創られていく。
 
 『備中眞鍋島の史料』を紐解くと、庄屋は、単に封建制度の一端を担うだけではないことが解る。時に行政官として租税徴収や漁業紛争など島内はおろか、島外とのもめごとから訴訟に至るまでを一切を取り扱い、時に裁定を下し、これらの全てを代官に報告する義務を負っていたようである。
 『備中眞鍋島の史料』にある古文書は、
歴代の庄屋によって書かれ、残されてきたものであり、これにより江戸期における真鍋島の庶民生活の一端を覗き見ることができる。

 

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